「ひとしずく」ーーひと昔編
絵であれ、彫刻であれ作品を見て、その作者がすぐそばにいるのに、普通、その作品をけなすことはしません。批判するとしても、慎重に評価しようとします。時間と心を込めて造り上げた作品ですから、私たちは、それに対して敬意を表します。
しかし、「自分」についてはどうでしょう?それについて私たちは、容赦のない批判と愚痴をこぼすことがあります。
大抵の人は、「僕って何てダメな人間なんだ」とか「私はどうしようもない存在だ、いないほうがマシだ」とか、いう台詞を吐いてしまったことがあるのではないでしょうか。
しかし、私たちは、いったい誰の作品であるのでしょう?
聖書には、「わたしたちは神の作品であって、良い行いをするように、キリスト・イエスにあって造られたのである。神は、わたしたちが、良い行いをして日を過ごすようにと、あらかじめ備えて下さったのである。」(エペソ二章十節)とあります。
神の作品と言われても、自分には何一つ良いところなどないし、心の闇もあり、今ひとつピンとこないと思うかもしれません。自分の今までの人生を振り返って見ても、暗く辛く困難なことばかりで、神様は、いったい、どんな作品を作ろうとしているのかと思えるのです。
そのことを考えていた時、以前、絵画の学習の一環として子供たちと見た「油絵の描き方」 のビデオを思い出しました。そのビデオでは、筆を持った画家がキャンバスに、まず黒っぽい色を塗っていきます。全て暗い色です。私は、そんなに暗い色ばかり使うなんて、どんな暗い絵が出来上がるだろうと思って見ていました。しかし、その画家は、今度はその暗い色に、明るい色を次々と加えていきました。私は、画家の意図が暗い作品を仕上げようとしているのではなく、光溢れる山の景色を描き上げようとしているのだとわかりました。影として残った暗い部分は、 光の当たった部分を、いっそう引き立たせる役割をしていました。
作品が仕上がるのを見るまでは、その暗い部分がどのような役割を果たすのかあまりわかりませんでしたが、画家はその効果を知っており、どのように明るい部分を引き立たせるか分かっていました。
神様もまた、同じではないかと思います。私たちは皆、罪深く、自分でもどうしようもできないほどの、哀れで弱い存在です。色でいうなら暗い色でしょう。しかし、そこに徐々に主の色が加えられていくなら、私たちの暗さは、主の光をいっそう輝かせるものとなるのではないでしょうか。
また人生の暗闇においても、同じ事が言えると思います。私たちは、人生の暗闇の中を通過して初めて、主の恵みの光に感謝できるようになります。そして神様が、私たちという作品を、その恵みと光のタッチで仕上げる時、困難な暗き時代は、作品にとって、深みと趣きをもたらしてくれる、なくてはならぬものとなるのです。
全能なる創り主をほめたたえます!
イエス様、このあなたにあって新しく造られた私達という作品を通して、神様の栄光が表されますように。古い私達が過ぎ去り、新しい被造者として、あなたの御性質が現れますように。イエス様のお名前で祈ります。
…罪の増し加わったところには、恵みもますます満ちあふれた。 (ローマ五章二十節)
だれでもキリストにあるならば、その人は新しく造られた者である。古いものは過ぎ去った、見よ、すべてが新しくなったのである。(第二コリント五章十七節)
主は霊である。そして、主の霊のあるところには、自由がある。わたしたちはみな、顔おおいなしに、主の栄光を鏡に映すように見つつ、栄光から栄光へと、主と同じ姿に変えられていく。これは霊なる主の働きによるのである。(第二コリント五章十六、十七節) (エペソ2章1節〜10節 参照)