「ひとしずく」ーーひと昔編
容姿の美しい人、才能のある人は、たとえばテレビや映画スターは、華やかで幸せそうに見えるけれど、本当はとても大変な人生を歩んでいるのではないかと思う時があります。有名人には自殺者、また薬物中毒になったりする人が多いように思えます。美貌と才能と、富と人々の注目を手中に収めているというのに、他に何の不服があるというのだろう?と思う人もいるのではないかと思いますが、私は何となく、彼らの気持ちが分かるような気がします。
人から多くの称賛を受けても、人々が注目しているのは、その人が持っている肉の美しさ、肉の才能で、その心にある美しさや思いに目を留めてもらえることは少ないと思います。肉の美しさや才能が邪魔しているのです。
これは、権力、財産、また技能や知能を備えた人にも言えると思います。そうした外面の優れたところにばかり、人々の関心が惹き付けられ、その人を特別にしてしまうのです。もちろん本人は、人々が見ているのは自分の外面だけだということを知っているのですが、その外面のイメージを保ち続けていかねばならず、心の内を見せることはできないのです。
自分の心、悩み、弱さを打ち明けられない、それを理解してもらえないというのは、孤独なことだと思います。そして、ただ人々が求めているのは、自分の肉の強さ、美しさだけというなら、科学技術がどんどん進んでいる現在では、精巧に人間の形をしたロボットが、自分の代わりを果たすこともできるかもしれません。
それでは、それらの外面の美しさ、生まれながらの強さ、賢さ、また色々な賜物などは、持っていない方が幸せなのでしょうか?それは、違うと思います。それらは、皆、神様が与えて下さったものです。それは、私たちがそれらの賜物を忌み嫌うためではなく、また自分の利益のためだけに間違った使い方をするのでもなく、神様の御用に用いるために使うべきものなのです。
エステル記に登場するエステルは、その美しさゆえに、王妃に抜擢されましたが、その美貌は、自分の国の民を救うために用いることになりました。
世界一のお金持ちとなり、世界一の知者となったソロモンは、伝道の書に、エルサレムを治めたすべての者にまさって、多くの知恵を得ても、またエルサレムにいたすべての者よりも大いなる者となっても、そして、自分が成したすべてのこと、およびそれを成すに要した労苦も、すべては、空の空、いっさいは空である、と書いています。
富と権力、知恵と美貌と健康こそ、幸せの鍵だと思っている人にとっては、ソロモンほど、うらやましい人はいないと思いますが、その何もかもを手に入れたソロモンが、一切は空である、つまり虚しいものであると言っているのです。幸せは持ち物によらないと、ソロモンは証言しているわけです。(伝道の書、1章、2章、参照)
ソロモンがそう言うにいたったのは、エステルのように、神の御用のために、自分が与えられた賜物を用いなかったところにあるのではないでしょうか。
要は、神様から頂いた賜物は、それがどんなに素晴らしいものであったとしても、神様の御心や御計画に沿って用いられるのでなければ、すべては虚しいということだと思います。
幸せを、自分の肉により頼んでいては、神の栄光を見ることはできません。そして、神の栄光を見ることのない人生は、虚しいとしか言いようがないのではないかと思います。
自分が他の人より賜物に恵まれているか否かは関係ありません。多く恵まれている人をうらやむことも、愚かなことです。大切なのは、神様から与えられた賜物、またお金や持ち物を、それがたとえどんなにわずかであっても、神様の御用のために用い、捧げているかということです。
自分の人生に、神の栄光が見られず、いつまでも虚しさに包まれているのなら、このことを吟味してみて頂きたいと思います。
自分は神様から与えられたものを神様のため、人のために用いて生きているだろうか、あるいは自分のためだけに用いて生きているのだろうか、と。
強い者は、強くない者たちの弱さをになうべきであって、自分だけを喜ばせることをしてはならない(ローマ十五章一節)
そこで神は御旨のままに、肢体をそれぞれ、からだに備えられたのである。 もし、すべてのものが一つの肢体なら、どこにからだがあるのか。 ところが実際、肢体は多くあるが、からだは一つなのである。 目は手にむかって、「おまえはいらない」とは言えず、また頭は足にむかって、「おまえはいらない」とも言えない。 そうではなく、むしろ、からだのうちで他よりも弱く見える肢体が、かえって必要なのであり、 からだのうちで、他よりも見劣りがすると思えるところに、ものを着せていっそう見よくする。麗しくない部分はいっそう麗しくするが、 麗しい部分はそうする必要がない。神は劣っている部分をいっそう見よくして、からだに調和をお与えになったのである。
それは、からだの中に分裂がなく、それぞれの肢体が互にいたわり合うためなのである。
もし一つの肢体が悩めば、ほかの肢体もみな共に悩み、一つの肢体が尊ばれると、ほかの肢体もみな共に喜ぶ。 あなたがたはキリストのからだであり、ひとりびとりはその肢体である。 (第一コリント十二章十八~二七節)