自己のイメージ崇拝

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2022年11月11日

「ひとしずく」ーーひと昔編

  先日久しぶりに、Sさんに会いました。彼はプロテスタントの長教派の組織の上に立つ人です。彼は近年、あらゆる宗教の根底に流れている、聖書の真理について研究をしています。その結果として、彼は、表面の教義の違いに捕われるのではなく、その根底に流れる共通している部分に気づくことの大切さを説いているのです。

 その研究自体、とても興味深いのですが、Sさんがその時話して下さったお話の中でとても興味深かったもう一つのことは、彼が「クリスチャンの持っている独善は偶像礼拝以上にひどい罪だ」ということでした。

 彼のその話は、カトリックのフランシスコ会のある神父さんが、宗教シンポジウムのパネリストとして発言していた内容と似ていると思いました。その神父さんも、宗教家、特にクリスチャンの「自分たちは他のどんな宗教よりも正しい」と心の中で思い込んでいることこそ、間違いであると指摘していました。

 「高慢は偶像礼拝に等しい。」(サムエル記上十五章二十三節)という言葉が聖書にあります。自分が正しい、と思うところには、相手を見下げる思いが発生しやすいものです。特に宗教的独善ほど盲目にしてしまうことはありません。それは自分の間違いや罪深さを見ることができないようにしてしまいます。

自分を義人だと自任して他人を見下げている人たちに対して、イエスはまたこの譬をお話しになった。 

「ふたりの人が祈るために宮に上った。そのひとりはパリサイ人であり、もうひとりは取税人であった。 パリサイ人は立って、ひとりでこう祈った、『神よ、わたしはほかの人たちのような貪欲な者、不正な者、姦淫をする者ではなく、また、この取税人のような人間でもないことを感謝します。 わたしは一週に二度断食しており、全収入の十分の一をささげています』。 ところが、取税人は遠く離れて立ち、目を天にむけようともしないで、胸を打ちながら言った、『神様、罪人のわたしをおゆるしください』と。 あなたがたに言っておく。神に義とされて自分の家に帰ったのは、この取税人であって、あのパリサイ人ではなかった。おおよそ、自分を高くする者は低くされ、自分を低くする者は高くされるであろう」。

(ルカ十八章九~十四節)

 自分を完璧な状態に保つために気を使っていると、そうでない人達のボロが目についてしまい、見下げる態度を取ってしまいます。しかし、自分を完璧にすることも、保つこともできない、自分を保つことのできるのは、神様の恵みによるとわかっていると、他の人を見下げることのできる立場でないことがわかります。

 イエス・キリストの恵みによって罪赦されて立っているに過ぎない自分であるのだから、他の人に対してもゆるしと愛の態度を持てますように。

わたしたちに負債のある者をゆるしましたように、わたしたちの負債をもおゆるしください。

(マタイ六章十二節)

人をさばくな。自分がさばかれないためである。 あなたがたがさばくそのさばきで、自分もさばかれ、あなたがたの量るそのはかりで、自分にも量り与えられるであろう。 

なぜ、兄弟の目にあるちりを見ながら、自分の目にある梁を認めないのか。 自分の目には梁があるのに、どうして兄弟にむかって、あなたの目からちりを取らせてください、と言えようか。 偽善者よ、まず自分の目から梁を取りのけるがよい。そうすれば、はっきり見えるようになって、兄弟の目からちりを取りのけることができるだろう。

(マタイ七章一~五節)

それだから、天国は王が僕たちと決算をするようなものだ。 決算が始まると、一万タラントの負債のある者が、王のところに連れられてきた。

しかし、返せなかったので、主人は、その人自身とその妻子と持ち物全部とを売って返すように命じた。 そこで、この僕はひれ伏して哀願した、『どうぞお待ちください。全部お返しいたしますから』。 

僕の主人はあわれに思って、彼をゆるし、その負債を免じてやった。 その僕が出て行くと、百デナリを貸しているひとりの仲間に出会い、彼をつかまえ、首をしめて『借金を返せ』と言った。 

そこでこの仲間はひれ伏し、『どうか待ってくれ。返すから』と言って頼んだ。 しかし承知せずに、その人をひっぱって行って、借金を返すまで獄に入れた。 

その人の仲間たちは、この様子を見て、非常に心をいため、行ってそのことをのこらず主人に話した。 

そこでこの主人は彼を呼びつけて言った、『悪い僕、わたしに願ったからこそ、あの負債を全部ゆるしてやったのだ。 わたしがあわれんでやったように、あの仲間をあわれんでやるべきではなかったか』。 

そして主人は立腹して、負債全部を返してしまうまで、彼を獄吏に引きわたした。 あなたがためいめいも、もし心から兄弟をゆるさないならば、わたしの天の父もまたあなたがたに対して、そのようになさるであろう」。

(マタイ十八章二三~三五節)

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