最後の者としての召し (2014年3月 ひとしずく1438)
ここ何年もの間、若者の就職難が続いています。中には百社を超える入社試験や面接をしている人もいると 聞きますが、それでも就職が決まらないというのは、精神的にもかなり辛い事だろうと思います。これらの若者たちのために祈らずにはいられ ません。
この若者たちのことを思いながら、聖書にある、ぶどう園での労働者の話を読んでいました。天国について 説明するためにイエス様が語られた、たとえ話です。
「天国は、ある家の主人が、自分のぶどう園に労働者を雇うために、夜が明けると同時に、出かけて行くよ うなものである。彼は労働者たちと、一日一デナリの約束 をして、彼らをぶどう園に送った。それから九時ごろに出て行って、他の人々が市場で何もせずに立っているのを見た。そして、その人たちに 言った、『あなた がたも、ぶどう園に行きなさい。相当な賃銀を払うから』。そこで、彼らは出かけて行った。主人はまた、十二時ごろと三時ごろとに出て行って、同じようにし た。五時ごろまた出て行くと、まだ立っている人々を見たので、彼らに言った、『なぜ、何もしないで、一日中ここに立っていたのか』。
彼らが『だれもわたしたちを雇ってくれませんから』と答えたので、その人々に言った、『あなたがたも、ぶどう園に行きなさ い』。さて、夕方になって、ぶどう園の主人は管理人に言った、『労働者たちを呼びなさい。そして、最後にきた人々からはじめて順々に最初 に きた人々にわたるように、賃銀を払ってやりなさい』。
そこで、五時ごろに雇われた人々がきて、それぞれ一デナリずつもらった。ところが、最初の人々がきて、もっ と多くもらえるだろうと思っていたのに、彼らも一デナリずつもらっただけであった。もらったとき、家の主人にむかって不平をもらして言った、『この最後の 者たちは一時間しか働かなかったのに、あなたは一日じゅう、労苦と暑さを辛抱したわたしたちと同じ扱いをなさいました』。そこで彼はその ひとりに答えて言った、『友よ、わたしはあなたに対して不正をしてはいない。あなたはわたしと一デナリの約束をしたではないか。自分の賃 銀をもらって行きなさい。わたし は、この最後の者にもあなたと同様に払ってやりたいのだ。自分の物を自分がしたいようにするのは、当りまえではないか。それともわたしが 気前よくしている ので、ねたましく思うのか』。このように、あとの者は先になり、先の者はあとになるであろう」。(マタイ20:1-16)
これは、何か割り切れない印象を受ける話ではないかと思います。ぶどう園で朝から一日働いていた人と、夕方に来て一時間し か働かない者との賃銀が同じで、しかも、後から来た人から賃銀が支払われたのです。
普通は、長く働いた者の方が、賃銀を多くもらい、後から来た者はその分、少ない賃銀になります。これは この世の常識です。しかし、このぶどう園では、皆、同 じ賃銀が支払われたのです。これではあまりにも不公平だと、朝から働いていた労働者が不平を言いたくなる気持ちもわかります。
しかし、イエス様がここで言われたかったことは、神の救いの恵みについてでした。自分はなかなか良く やっていると思っている時、私たちは、もしかすると、自 分は長い間働いていた人だとは考える傾向にあるのではないでしょうか?そして周りの人は、自分ほども働いていないのに良い待遇を受けてい て不公平ではない か、と考えてしまうところがあるように思えます。
後から来て、ふさわしくない報酬を受けた者たちとは、本当は私たち自身であり、大方の私たちに当てはま ることであると思います。私たちが神様から受けている 恵みと愛と赦しは、自分たちがふさわしくて、当然もらえるものではありません。私たちは、皆不完全なところを持っており、主にその罪を 覆ってもらわなければなりません。主は十字架の犠牲をもって、わたしたちを赦して下さいました。そして今も弱い私たちのために、とりなし 続けて下さっているのです。
ですから、最後にやってきて、皆と同じ報酬を受けたのは、大方の私達に当てはまることであると思いま す。私たちは、神様の恵みに与っているのです。
ところで、このぶどう園の話に出てくる最後に来た人たちと、就職がなかなか決まらない若者たちの姿は、 少し重なって見えるところがあると私は思いました。
私は最後に来た人たちが朝から働いていた人たちよりも、楽をして賃銀をもらい恵まれていたかというと、 そうではないと思います。確かに最後に来た者たちは、 他の人と同じ一日の賃金一デナリをもらえたので嬉しかったことでしょう。しかし、最後に来た人たちは、そのぶどう園で雇ってもらうまでの 間、明日への不安を抱きながら、自分がいつ雇ってもらえるのだろう?果たして自分を雇ってくれる人などあるのだろうか?自分はもう終わり かもしれないと絶望的になり、泣きたい気持ちで途方に暮れていたのではないかと思います。神様はそんな辛い思いをよく御存知であられたの で、その思いをいたわるかのように、朝から働いている労働者と同じ賃銀を、しかもその人たちよりも先にお与えになったのではないでしょう か。それが神様というお方なのです。
仕事をいくら探しても、なかなか与えられないと、自分の価値さえ疑ってしまう誘惑にかられるかもしれま せん。「自分はだれからも必要とされていない存在なのだ」と。
しかし、自分の置かれている状況や境遇がたとえ厳しく、人から必要とされているように思えなくても、また人が実際に自分を 必要としていないと言ったとしても、神様は私たちのための特別な御計画をお持ちですし、私たち一人一人をとても必要とされているのです。
神様は多く働き、後に来た者を見下げ、賃金のことで不平を言った人たちを戒めました。それは、どれだけ 働いたかということよりも、その心が主の前に、どうであるかということを問題にしておられたからだと思います。
「あとの者は先になり、先の者はあとになる」のです。神様は、私たち一人一人を、特別なことのために備えていてくださって います。もし自分の人生が思うようにうまく行かず、落胆し希望を失いかけているのなら、神様には私たちの思いとは異なる素晴らしい御計画 が あるのだということを思い出してください。
ちょうど、婚礼の最後に葡萄酒が無くなってしまった時に、あるのは水がめの水しかありませんでした。婚 礼の客達に水を出すわけにはいきません。しかし、主は水を上等の葡萄酒に変えられて、料理頭はじめ、弟子たちや人々を驚かせました。
「料理がしらは、ぶどう酒になった水をなめてみたが、それがどこからきたのか知らなかったので、(水を くんだ僕たちは知っていた)花婿を呼んで言った、「どんな人でも、初めによいぶどう酒を出して、酔いがまわったころにわるいのを出すもの だ。それだのに、あなたはよいぶどう酒を今までとっておかれました」。 (ヨハネ2:9,10)
特別な味も香りもない、ただの水のような存在に自分のことが思えるなら、主にはご計画があります。今 は、どんなものをも造りかえ、またどんな使い方もおできになる、主人であるイエス様のことを愛し、学び、喜び、そして祈るように召されて いる時であるのかもしれません。
「主は、人には捨てられたが、神にとっては選ばれた尊い生ける石である。この主のみもとにきて、あなた がたも、それぞれ生ける石となって、霊の家に築き上げられ、聖なる祭司となって、イエス・キリストにより、神によろこばれる霊のいけにえ を、ささげなさい。聖書にこう書いてある、『見よ、わたしはシオンに、選 ばれた尊い石、隅のかしら石を置く。それにより頼む者は、決して、失望に終ることがない』」。
(第一ペテロ2:4-6)
主の最高の召しである、「聖なる祭司」として、人々のために祈り続けるという任務は、今もいつも、どん な仕事をしていても、私たちのために開かれています。
主に信頼し、希望を持ち続けて、最後の者として受ける恵みと喜びを、今、日々、知ることができますよう に。
「だれでもキリストにあるならば、その人は新しく造られた者である。古いものは過ぎ去った、見よ、すべ てが新しくなったのである。」(第二コリント5:17)