七月十七日 地上での苦難の後には (二〇一二年七月 ひとしずく八八八)
体を殺しても魂を殺すことのできない者どもを恐れるな。(マタイ十章二八節)
イエス様は、かなりはっきりと語られました。この真理の言葉は、弱い者、虐げられた者、 そして朽ちて行く肉体を持っている全ての生き物に希望を与えてくれるものです。 イエス様がこれを、きっぱり言われているのは、その中に、「どうして朽ちる肉体に、しがみつき心配するのか?今に栄光に輝く体が与えられようとしているのに?」とたしなめる思いがあるようにも感じられます。
霊の世界は存在します。肉体が滅んでも永遠に続く命があるのです。したがって、朽ちるものではなく、朽ちない永遠の命に目を留めなさいということなのでしょう。
先日、土を掘り起こしていたら、幾つもの大きくなったジャガイモができていました。しかし、その下に全くしわくちゃになって小さくなった種イモもありました。
こんなに沢山のイモ達ができるために、自分の命を与えてくれた種イモです。その与えられた命は、無くなってはおらず、新しいイモ達の中に息づいているのです。 こんな土の中の世界にも、命の縮図が見えます。
イエス様は、この地上の肉体は、朽ち、土に埋められるけれど、見えない命は、いつまでも生き続けるとはっきりと言われました。
どういうわけか、この地上での人生が、そんなにも苦労と試練の最中にある時こそ、新しい命が輝いてくるように思えます。 ちょうど種イモと、新しいイモ達が教えてくれているように。 イエス様は、自分から進んで命を差し出されました。私たちがそれによって新しい命を得ることができるように。彼は肉の命の執着から離れて、それを与えることにされました。肉においてそうすることは、イエス様にとっても試練でしたが「わたしの思いではなく、 あなたの御心がなされますように」と父なる神様の導きに従われたのです。私たちも永遠の命に生きるために、地上の肉の命が卑しめられる時、どうか真理から来る希望を捨てることがありませんように。あるいは、神の真理が与える希望を見出すことができますように。
ちょうど車輪が泥の中に浸かってでも、泥と土を蹴って車を進ませるのがその使命であるように、私たちが泥沼の状態の中で、主のご計画と使命を果たすために呼ばれる時、たじろぐことがありませんように。車輪がその務めを果たしている時、泥に浸かっている部分は、一体自分に何が起っているのか 見当もつかないことでしょう。しかし、これ以上最悪の事態はないだろうと思えるような状態の時こそ、使命を立派に果たす機会を、主が提供しておられる時なのかもしれません。私たちの肉は、泥に浸かるのではなく、きれいに舗装された平坦地を悠々と走りたいと思いますが、いつもそうであるわけではありません。目的地までの道のりは、時には泥の中を通らねばならぬこともあるのです。
私たちの目にとって、最悪の事態に思える時も、神様が許されたのであるなら、それは神様の栄光に満ちたご計画の一部分なのです。どうか、そのことを忘れずに、賛美によって苦難を耐え忍び通すことができますように。
この地上での苦難の後には、約束された命の冠が待っているのです。
よくよくあなたがたに言っておく。一粒の麦が地に落ちて死ななければ、それはただ一粒のままである。しかし、もし死んだなら、豊かに実を結ぶようになる。」(ヨハネ十二章二四節)
試錬を耐え忍ぶ人は、さいわいである。それを忍びとおしたなら、神を愛する者たちに約束されたいのちの冠を受けるであろう。(ヤコブ一章十二節)
ほむべきかな、わたしたちの主イエス・キリストの父なる神。神は、その豊かなあわれみにより、イエス・キリストを死人の中からよみがえらせ、それにより、わたしたちを新たに生れさせて生ける望みをいだかせ、あなたがたのために天にたくわえてある、朽ちず汚れず、しぼむことのない資産を受け継ぐ者として下さったのである。
あなたがたは、終りの時に啓示さるべき救にあずかるために、信仰により神の御力に守られているのである。そのことを思って、今しばらくのあいだは、さまざまな試錬で悩まねばならないかも知れないが、あなたがたは大いに喜んでいる。こうして、あなたがたの信仰はためされて、火で精錬されても朽ちる外はない金よりもはるかに尊いことが明らかにされ、イエス・キリストの現れるとき、さんびと栄光とほまれとに変るであろう。(第一ペテロ一章三~七節)
あなたがたをキリストにある永遠の栄光に招き入れて下さったあふるる恵みの神は、しばらくの苦しみの後、あなたがたをいやし、強め、力づけ、不動のものとして下さるであろう。(第一ペテロ五章九節)