誠なる愛の神

六月三〇日 誠なる愛の神 (二〇一二年六月 ひとしずく八五七)
 

 イエス様が、あるサマリヤ人の女性に神様の礼拝の仕方についてお話していた時、次のような言葉を語られました。

「女よ、わたしの言うことを信じなさい。あなたがたが、この山でも、またエルサレムでもない所で、父を礼拝する時が来る。あなたがたは自分の知らないものを拝んでいるが、 わたしたちは知っているかたを礼拝している。救いはユダヤ人から来るからである。しかし、まことの礼拝をする者たちが、霊とまこととを もって父を礼拝する 時が来る。そうだ、今きている。父はそのような礼拝をする者たちを求めておられるからである。」(ヨハネ四章二一~二四節)

 イエス様が言われた「この山」というのは 「ゲリジム山」で、モーセがそこで民を祝福するようにと告げた場所でした。(申命記十一章二九節) サマリヤの人たちにとっては、そこが聖なる礼拝の場所だったわけです。

一方、ユダヤ人にとっては、神殿があり礼拝をするエルサレムが聖なる場所でした。

 しかし、イエス様が語っておられたのは、場所や儀式儀礼にこだわるのは過去のことであり、今はその必要はないということでした。それで「この山でも、またエルサレムでもない所で、 父を礼拝する時が来る」と言われたのです。また「神は霊であるから、礼拝する者も、霊とまこと(誠)とをもって礼拝すべきである」と言われました。

 そして、このサマリアの女性は、イエス様にも言えない事情を抱えていましたが、イエス様はそれを見抜いておられ、真実な生き方をしなさい、と言われました。

 言った言葉通りに成るように、つまり誠実な生き方をするようにと言われたのです。

 私は聖書のこの箇所を読み、「まこと (誠)」という言葉について考えていました。

「誠」は「言葉」が「成る」と書きます。これは言った言葉を成す、守るという意味にとれると思います。

 そのことを自分に照らし合わせて、私はどれだけ自分の言った約束を果たしているだろうか?と思いました。

待ち合わせの約束ひとつにしても、今まで遅れたことが、何度あったことか。

最近もそのようなことがあり、ある方に迷惑をかけてしまいました。

約束を守るということも、言ったことを成す「誠」に通じるものだと、自分を反省しつつ思っています。

神様は恵み深い方で、いつも寛大に赦して下さいます。そして私が約束を守れなくて迷惑をかけてしまった方々も、快く赦して下さ いました。こんな愛と赦しに与ることができ、本当にありがたいことです。しかし、主を本当に愛し、誠をもって礼拝するのなら、やはり言葉と行いが一致していることが大切なのだと、つくづく思います。

ところで、私達は、約束を守ることができず、まことに欠けていても、神様はまことであり、真実で、約束を守られる方です。

 イエス様は、神様の語られた言葉が肉体となられた方でした。神様のご意思、神様の真理が地上で生きた存在でした。

言は肉体となり、わたしたちのうちに宿った。わたしたちはその栄光を見た。それは父のひとり子としての栄光であって、めぐみとまこととに満ちていた。(ヨハネ一章十四節)

聖句を読めばわかるように、ここで言われている「言」は、イエス様のことであり、神様は、約束どおり、地上に降りてこられました。

イザヤ書という旧約聖書の中の預言書に「それゆえ、主はみずから一つのしるしをあなたがたに与えられる。見よ、おとめがみごもって 男の子を産む。その名はインマヌエルととなえられる」(イザヤ七章十四節)とあります。

「インマヌエル」は、「神われらと共にいます」という意味です。(マタイ一章二三節)

神様は約束どおり、救世主を地上に送られました。おとめマリヤから生まれたイエス様です。そしてその「インマヌエル」という言葉の意味どおり、人々の間に宿られたのです。

これはイエス様についての預言です。真実に生きる事、約束を守ることは、人にとって簡単ではありません。数年前の約束も果たすのは難しいです。数日前にした約束さえ果たせないことがあります。

 しかし、神様は何百年も前に、「あなたがたのところにやって来るから」と約束されたその言葉を守られました。まさにその言葉を成就されたのです。神様はまことであられました。

 そのように、神様は、言ったことを守られるまこと(誠)の神様であり、真実です。

 神様には、御自分の語られた言葉を成就される力がおありです。それを知っていたローマの百卒長は自分の僕を癒して頂くために「ただお言葉をください。そうしたら僕は良くなりますから」とイエス様にお願いしました。イエス様が語ってさえくださったらその通りになると知っていたからです。そこまで、イエス様を真実の神として信じたこのローマ兵の信仰をイエス様は褒めて下さいました。

 さて、イエスがカペナウムに帰ってこられたとき、ある百卒長がみもとにきて訴えて言った、

 「主よ、わたしの僕が中風でひどく苦しんで、家に寝ています」。

イエスは彼に、「わたしが行ってなおしてあげよう」と言われた。

 そこで百卒長は答えて言った、「主よ、わたしの屋根の下にあなたをお入れする資格は、わたしにはございません。ただ、お言葉を下さい。そうすれば僕はなおります。

 わたしも権威の下にある者ですが、わたしの下にも兵卒がいまして、ひとりの者に『行け』と言えば行き、ほかの 者に『こい』と言えばきますし、また、僕に『これをせよ』と言えば、してくれるのです」。

 イエスはこれを聞いて非常に感心され、ついてきた人々に言われた、「よく聞きなさい。イスラエル人の中にも、これほどの信仰を見たことがない。」(マタイ八章五~十節)

 ところで、また先に述べた聖句ヨハネ 一章十二節には、「めぐみとまことに満ちていた」とあります。主イエス様は、真実な方であると同時に、めぐみに満ちているのです。それは 「神は愛である」という言葉に通じます。(第一ヨハネ四章八節後半)

 主の語られる言葉はまことです。そしてそれはめぐみに満ちているのです。神様の御性質が愛だからです。

もし、わたしたちが自分の罪を告白するならば、神は真実で正しいかたであるから、その罪をゆるし、すべての不義からわたしたちをきよめて下さる。 (第一ヨハネ一章九節)

まことの真実の神様は私達にも真実を求められます。罪を認め、告白してそれから離れることを望まれます。でも私達がそれをする時、主は私達を赦して下さるのです。私達の罪の赦しのために主イエス様は十字架にかかって下さいました。

 愛であり、まことであるこの神様に見守られて、私達は生きていると知ることは何と恵まれていることでしょうか。だから使徒パウロの言葉を通して、このような約束も伝えられてあります。

あなたがたの会った試錬で、世の常でないものはない。神は真実である。あなたがたを耐えられないような試錬に会わせることはないばかりか、試錬と同時に、それに耐えられるように、のがれる道も備えて下さるのである。(第一コリント十章十三節)

 私達は、この約束がまことであると、信じているので、希望があります。神様は真実なので、その語られたことを守って下さると知っているのです。ですから、困難に遭遇している方がいらしたら、是非、この真実な神のお言葉を試してみて下さい。神様は真実で、恵みとまことをもって、私達の信頼に応えてくださることでしょう。言われたことを、成して下さるまこと(誠)なる神だからです。

他の投稿もチェック

イエス・キリストの生涯-22

イエス・キリストの生涯-22 聖書の基本4 https://ichthys.com/4A-Christo.htm ロバート・D・ルギンビル博士著 e)キリストの誕生にまつわる出来事<vi>                 5.  エジプトへ逃れることとナザレへの二度目の帰還: ...