主の御許に行きなさい 

六月二六日 主の御許に行きなさい (二〇一二年六月 ひとしずく八五〇)

 数日前に、裏庭で燃えないゴミや、ガラスの欠片を集めていました。大きなガラスは砕いて、袋につめていましたが、その時、小さな破片が靴の中に飛んで入ったのか、私の右足は床につく度に痛むようになりました。
 私は初め、こんな痛みはすぐに消えてなくなるだろうと思っていました。
 しかし、痛みはどんどん増してきます。妻を見舞いに那須に来てくれている娘は、それを知って、すぐに医者に診てもらうようにと勧めました。
 私は、こんなちっぽけな破片のために切開して痛みを伴うことや、そして恥ずかしいことに水虫がまだ治っていなので、今のままで我慢するという選択に行き着いたのです。
 しかし、娘は心配して執拗に何とかするようにと主張します。下の娘も「カッターナイフがあるからそれを使ったら?」と言うのです。私は娘たちに、自分の気持ちを正直に話しました。一滴の血を見るのも怖いし、また痛みにも弱いし、それに水虫があるので足を見られたくないし触ってもほしくはないことなど。
 しかし、娘たちは自分たちがしないなら、やっぱりお医者さんに行く必要があるというので、私はついに観念して、彼らに足に深く入った破片を取り除いてもらうことにしたのでした。
 消毒したナイフで外の堅い皮膚を削り、毛抜きで取り出しました。
 四苦八苦しながらの作業でしたが、ついに娘が「これじゃない?」と言って見せてくれたのは、わずか2-3ミリの小さな尖った破片でした。破片がとっても小さかったことと、取り出すのが思ったほど大変でもなく、痛くもなかったことに驚かされました。

 その破片を取り出してくれた娘が「これって、苦い思いと同じだよね。」と言いました。

 私は、なるほどと思いました。偶然にも、その日のバイブルクラスで、この「苦い思い」について、少し触れたところでした。
 人を赦さない思いは、たとえどんなに小さくても、それを取り除かないでいると、その部分が化膿してそれが段々と広まり、最後には大変な状態にもなり得ます。ちょうど私の足のように。ただ、それを包帯で巻いたり、衣服で覆ってごまかしても何の解決にもなりません。その下で問題は益々大きくなっているかもしれないのです。
 悪魔は、そのように根本的な解決策に至らせないように、あらゆる恐れをもって攻撃してきます。そんなことは表に出すべきではない。人に知らせたらどんなことになることか。あなたは何も問題がないように振る舞っているべきだ、などなど。そしてどうしようもなくなって、解決策を求める時には、処置に大変な手間がかかったり、手遅れということもあるのです。
 主は偉大な医師です。私たちは、自分のめちゃめちゃで、どろどろで、とても他の人には話せないものでも、主のもとには持って行くことができます。主はそんな心の状態を見て、けっして咎めもしなければ、まして軽蔑することもありません。そして主にとっては、悪すぎることも、また難しすぎる問題もありません。
 主は奇跡の主であられ、神には不可能は何もないのです。
 私たちは主に対して、もっと大きな信頼を寄せる必要があるのだと思います。
主は私たちを愛しておられ、どんなことでもして下さるのです。その主に、自分の心の全てをさらけ出せるほどに、その愛を信じ、信頼しているべきなのです。

 「愛には恐れがない。完全な愛は恐れをとり除く。恐れには懲らしめが伴い、かつ恐れる者には、愛が全うされていないからである。」(第一ヨハネ四章十八節)とあります。
 これは私たちの内に「完全な愛」を持つのを求めておられる聖句です。そしてその完全な愛を持つことによって、私たちは恐れから解放されるのです。

主は愛の内に全てを上手くやって下さるという信頼を持つこと、それが神への愛ではないでしょうか?主の助けを求めない限り、主はそれに答えることはできません。何にも増して、主に求める者を主は決して、失望させられないのです。
 主がその大いなる愛と優しさと赦しをもって、恐れと疑いと不信の全てを取り去って下さいますように!
 主は私たち一人一人を救うために、ご自分の命を捨てられるほど愛して下さっています。
 その主が、私たちを癒し、慰め、助けて下さるのです!

わたしは決してあなたを離れずあなたを捨てない。(ヘブル十三章五節)

ひとりのらい病人が、イエスのところに願いにきて、ひざまずいて言った、「みこころでしたら、きよめていただけるのですが」。イエスは深くあわれみ、手を伸ばして彼にさわり、「そうしてあげよう、きよくなれ」と言われた。すると、らい病が直ちに去って、その人はきよくなった。(マルコ一章四〇~四二節)

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