六月二一日 裁きについて (二〇一二年六月 ひとしずく八四二)
よくよくあなたがたに言っておく。わたしの言葉を聞いて、わたしをつかわされたかたを信じる者は、永遠の命を受け、またさばかれることがなく、死から命に移っているのである。(ヨハネ五章二四節)
この聖句から、主を信じる私たちは自分がどんなに罪深く思えても、主は私たちを裁かれないということがわかります。私たちは、正直に自分の心を調べるなら、そこにはどうしようもない自己中心な思いがあり、神様から離れて勝手なことをしがたる自分が存在していることに気づきます。そして、それがわかっているので、 なかなか神様に近寄れないでいるのです。そんなどうしようもない自分を神様が受け入れてくださるとは思えないのです。
しかし、主はそんな私たちのことをよく理解しておられ、こう言っ てくださいました。
「わたしがきたのは、この世をさばくためではなく、この世を救うためである。」(ヨハネ十二章四七節)
主は自ら謙ってこの地上にやって来られ、私たちに近づいてくださったのです。そして私たちの罪の身代わりとなられ、よみがえられたのです。
だれが、わたしたちを罪に定めるのか。キリスト・イエスは、死んで、否、よみがえって、 神の右に座し、また、わたしたちのためにとりなして下さるのである。(ローマ八章三四節)
しかし、だからと言って全ての人間に対する「裁きの日」がイエス様の到来によって、なくなったかというと、そうではありません。最終的な裁きから免れるのは、イエス様の十字架上でのあがないを信じ受け入れた人たちです。つまり救いという恵みを受け取った人たちなのです。
それを信じず、受け入れようとしない人は、イエス様に向って「あなたのそんな身代わりは私には不要だ」と言っているようなもので、それは裁判での弁護人を自分は必要としないと主張するようなものです。赦しとあらゆる罪の代償を申し出て下さっているイエス 様を拒否しているのです。 そして、そういう人たちは、その自らの選択によって、裁きの前に立つことになるのです。つまり父なる神様の裁きの際に、神の子のとりなしと弁護なしに御前に立つことになるのです。その時には、それぞれがその行いに応じて裁かれると聖書にあります。
死んでいた者が、大いなる者も小さき者も共に、御座の前に立っているのが見えた。かずかずの書物が開かれたが、もう一つの書物が開かれた。これはいのちの書であった。死人はそのしわざに応じ、この書物に書かれていることにしたがって、さばかれた。海はその中にいる死人を出し、死も黄泉もその中にいる死人を出し、そして、おのおのそのしわざに応じて、さばきを受けた。(黙示録二十章十二、十三節)
「おのおのそのしわざに応じて」とあるので、身に覚えのないことで不公平に裁かれたと思う人はないことでしょう。それぞれの言動が一切記されている記録が開かれ、各人の記憶も甦り、公平な裁きを受けることになることでしょう。それぞれが、知り得た真理にどれだけ従ったかによって裁かれることになるのです。 (ローマ一章二〇節、二章十二、十四節)
「わたしを捨てて、わたしの言葉を受けいれない人には、 その人をさばくものがある。わたしの語ったその言葉が、終りの日にその人をさばくであろう。」(ヨハネ十二章四八節)とあります。イエス様の語った言葉は真理です。ですから各自に語りかけられ、知り得た真理に応じて、裁かれるのです。その人の心の中にある真理です。
ところで、イエス様を信じた人は、自分の行いによってではなく、ただ神様の憐れみによってイエス様の支払ってくださった代価によって救われているとわかっています(エペソ二章八、九節)。 しかしだからと言って、いったん救われたら、何をしてもかまわないというわけではありません。 それだけの愛と恵みを受け、また真理に与った私たちは、その主への愛ゆえに、どのような愛と行いをもって、これからの人生を生きるかということが問われていると思います。主は私たちに、神の子として永遠の命に生きるという特権をくださっただけではなく、あらゆる天の知識に富ませてくださっています。しかしそれらの知識には責任が伴います。主はそれら多く与えられた者からは多くを求めておら れるのです。
私たちがその恵みの中で、主の御心を行わず、自分の好き勝手なことばかりし続けているのであれば、ついにこの世の人生が終わり、主と対面する時に、どんな心痛を味わうことになるのでしょう?
ここで、当時の主人としもべの関係を考えるなら、主人に言われた通りのことをしなかったしもべは、鞭打たれて当然でした。鞭打たれたからといって、もうしもべではなくなるというわけではないでしょうが、忠実なしもべにとっては、主人の期待を裏切り失望させたと知るのは、鞭打ち以上に、とても痛い仕打ちに思えたことでしょう。特に、私たちを愛して、ご自分の命さえ惜しまずに差し出される主人の心を失望させたと知るのは、どれほど心痛むことでしょう? それこそが、私たちにとっての何よりつらい裁きになるのではないでしょうか?
主は、私たちが主を悲しませるなら、結局私たち自身が悲しみを味わうことになるということを知っておられます。主は私たちがそのような悲しみに遭うことを望んではおられません。主が望まれているのは「忠実なしもべよ、よくやった」と言えるような生き方を、 私たちが最後まですることなのだと思います。(マタイ二五章二一節) 主は、私たちが忠実なしもべとなり、また「初めの愛」に生き続けるようにと、この地上においても訓練を与え、常に叱咤激励し続けてくださっているのです。(黙示録二章四節、 ヘブル十二章五、六節)
どうか、私たちが主に喜んで頂ける人生を歩むことができますように。
土台はイエス・キリストである。この土台の上 に、だれかが金、銀、宝 石、木、草、または、わらを用いて建てるならば、それぞれの仕事は、はっきりとわかってくる。すなわち、かの日は火の中に現れて、それを 明らかにし、また その火は、それぞれの仕事がどんなものであるかを、ためすであろう。もしある人の建てた仕事がそのまま残れば、その人は報酬を受けるが、 その仕事が焼けてしまえば、損失を被るであろう。しかし彼自身は、火の中をくぐってきた者のようにではあるが、救われるであろう。」(第一コリント三章十一節後半~十五節)
主が言われた、「主人が、召使たちの上に立てて、時に応じて定めの食事をそなえさせる忠実な思慮深い家令は、いったいだれであろう。主人が帰ってきたとき、そのようにつとめているのを見られる僕は、さいわいである。よく言っておくが、主人はその僕を立てて自分の全財産を管理させるであろう。しかし、もしその僕が、主人の帰りがおそいと心の中で思い、男女の召使たちを打ちたたき、そして食べたり、飲んだりして酔いはじめるならば、その僕の主人は思いがけない日、気がつかない時に帰って来るであろう。そして、彼を厳罰に処して、不忠実なものたちと同じ目にあわせるであろう。主人のこころを知っていながら、それに従って用意もせず勤めもしなかった僕は、多くむち打たれるであろう。しかし、知らずに打たれるようなことをした者は、打たれ方が少ないだろう。多く与えられた者からは多く求められ、多く任せられた者からは更に多く要求されるのである…」 (ルカ十二章四二~四八節)