六月八日 天にあるものを求める (二〇一四6月 ひとしずく一五七〇)
「あなたは顔に汗してパンを食べ、ついに土に帰る、あなたは土から取られたのだから。あなたは、ちりだから、ちりに帰る」。(創世記三章十九節)
これは神様が人の体に定められたことです。私たちはこの弱く朽ちていく体に目を留めていると、不安になり落ち着かなくなり、何とかしなければという気持ちになりイライラしたり落胆したりします。もちろん、神様から頂いたこんなに素晴らしい機能を持つ体を感謝をもって大切にすることは人の本分だと思います。しかし、思いの焦点をただ弱っていく体にのみ当てていると、神様が与えてくださっている恵みを忘れてしまいがちになります。
私たちは絶えず、思いを集中させているものからエネルギーをもらっています。地獄に集中しているなら、そこから恐れや絶望など、破壊的なエネルギーを、天国に集中しているなら、平安と喜びと希望という建設的なエネルギーを頂くのです。
神も天国も知らない人にとっては、天国に集中するのは難しいかもしれません。しかし、天国を知っている私たちでさえも、体と精神的苦痛のあまり、思いが地獄に向いてしまう時があるのではないかと思います。確かに苦痛の中で天国を思うことは難しいかもしれません。しかし、天国とは単なる想像の世界ではなく、実在する事実の世界であることを忘れてはなりません。それは、イエス様の贖いによって罪赦され、天に迎えられる神の子とせられた者が見るべき希望の世界です。そしてその天国だけに集中して、その力を頂くのです。その場所こそが私たちの心のふるさとです。たとえ土から作られたこの肉体が朽ちて土に帰るとしても、この体に宿っている本当の私、私の霊はその天国の主のもとに行く のです。
美しい自然を見ると心が和み、ストレスが取り去られ、疲弊した精神と体に癒しを受けます。それと同じように、天の御国を思う時、平安と希望という祝福が私たちの魂にもたらされるのです。
あなたがたは上にあるものを思うべきであって、地上のものに心を引かれてはならない。(コロサイ三章二節)
この節の前後を見るとその理由が記されています。
このように、あなたがたはキリストと共によみがえらされたのだから、上にあるものを求めなさい。そこではキリストが神の右に座しておられるのである。…わたしたちのいのちなるキリストが現れる時には、あなたがたも、キリストと共に栄光のうちに現れるであろう。(コロサイ三章一、四節)
天には私たちの主イエス・キリストが、神の右に座しておられ、私たちがこの人生を卒業する時、主は、両手を広げて迎えてくれるのです。私たちの目指すところは、イエス様の御腕の中です。私たちは、この古い体を脱ぎ捨てて、神の御許に行くのです。
この地上にあるものは全て一時的であり、天にあるものの影にすぎません。私たちが天に着いた時、私たちは全ての美しいもの、愛で満たされたもの、調和のとれたものの実体を体験することになります。そして、私たちの愛の主が私たちを待っていてくださり、病、孤独、痛み、悔恨の涙を拭い去って下さるのです。
そんなにも素晴らしい天国と愛する主が待っているのですから、やがては消え去っていく地上のものに、固執しようとするのではなく、前にある大いなる素晴らしいことに目を向けていこうではありませんか。
これらの人はみな、信仰をいだいて死んだ。まだ約束のものは受けていなかったが、はるかにそれを望み見て喜び、そして、地上では旅人であり寄留者であることを、自ら言いあらわした。そう言いあらわすことによって、彼らがふるさとを求めていることを示している…実際、彼らが望んでいたのは、もっと良い、天にあるふるさとであった。だから神は、彼らの神と呼ばれても、それを恥とはされなかった。事実、神は彼らのために、都を用意されていたのである。(ヘブル十一章十三、十六節)
見よ、神の幕屋が人と共にあり、神が人と共に住み、人は神の民となり、神自ら人と共にいまして、人の目から涙を全くぬぐいとって下さる。もはや、死もなく、悲しみも、叫びも、痛みもない。先のものが、すでに過ぎ去ったからである」(黙示録二一章三、四節)