「一粒の麦」としての生き方

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2023年6月6日
六月六日 「一粒の麦」としての生き方 (二〇一四 ひとしずく一五六五)

 たまたま、友人の誘いで出かけていった古本市で、賀川豊彦全集の内の幾冊もの本をとても安く手に入れることができました。今まで時間がなくて、なかなか読めなかったのですが、先日夜遅くまでかかりましたが、一つの小説を読み終えることができました。

それは「一粒の麦」と題するものでした。主人公は、非常に貧しいクリスチャン男性に嫁ぎたいと思っていた女性で、実在した人をモデルに描いたものです。この女性の愛した男性は、以前はとても虚しい生活を送っていたのですが、イエス・キリストとの出会いによって人生が一転 した人でした。彼の罪の悔い改めは、村の中で嫌われ避けられていた癩病患者へ毎日奉仕するという行動に現れます。また酒飲みで酔いつぶれている父親の世話や奇怪な病気にかかっていつまでも治らない寝たきりの弟の世話、そして一人で全てを背負い込んで苦労の耐えない母親を支 えるために、自分の人生を捧げて生きていました。

 主人公である女性は、そんな彼に思いを寄せ一緒になりたいと願うのでした。しかし彼 は、その女性に初めはなかなか返事をしませんでした。彼は自分のそんなにも貧しく苦労の絶えない家庭に、その女性を迎え入れることなど、とてもできないと 思っていたのです。しかも、彼はすぐに兵隊として出征しなければなりませんでした。

しかしこの女性は、それにも拘わらず、彼が出征して帰ってくるまで家族の世話をすることを 決意します。結婚はまだしていなかったのです が、彼女は、その貧しく問題を抱えた家族の中に身を投じます。そして、昼夜、家族の病人の世話に加え、癩病人の世話など、身を粉にして働くのです。また彼女は自分の夫となる男性が続けていた木を植える仕事も行っていました。そんな献身的な彼女に対して、噂や誤解から家族は冷たくあしらい、また村には根も葉もない噂を立てる心無い人たちもいましたが、彼女は、最後まで家族や助けが必要な人たちのために、生き続けたのでした。

しかし、彼女はその過労のため病に伏し、男性が兵役から戻って来る二ヶ月前に、この世を去ってしまうのでした。

ここまで見ると、彼女の人生は非常に残念な結末のように思えます。しかし、自分の命を捨てて、愛する男性の家族や、癩病人の世話をし続けた彼女の姿は、村人たちの心を確実に変えていました。村には新しい信仰の灯がともされ、助 け支え合う共同体が出来上がったのです。一人の男性から始まった信仰の歩みが、この女性の生き方を変え、そして村を変えることになったという話でした。

私は、酒に狂ったり、噂によって村八分にしようとする者たちの中で、それに汚されることなく愛の実践に生き続けた女性の姿に感動させられました。

 彼や彼女が、本当にイエス様を愛し、御言葉に生きていたのがわかります。そして、イエス様のような生き方というのはこういうことなのだろうと思いました。

見返りを期待せず、ただ与え仕えることだけを考えていた彼らは、まさしく地に落ちて死んだ一粒の麦だったのです。

彼らのような生き方をした人たちが残していった実が、今も増え続けていますように。また私たちも、この「一粒の麦」としての生き方に倣えるように、祈りたいと思いま す。

 よくよくあなたがたに言っておく。一粒の麦が地に落ちて死ななければ、それはただ一粒のままである。しかし、もし死んだなら、豊かに実を結ぶようになる。(ヨハネ十二章二四節)

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