六月四日 人それぞれのための神の導き (二〇一四年 ひとしずく一五六三)
最近の創世記の学びを通して、いくつか気づかされたことがあります。その一つは、信仰の道の霊的な原則はどの人にも当て はまるものの、信仰の行動の現れは、個々の人によって異なるということです。それは、各人の好きなこと、やりたい事が違うのだから、当然、それぞれの行いが異なるのは当たり前、という話とは違います。神に従う者の各々の信仰の行動が異なるのは、各々に対する神の導きが異なるためであって、各々が自分勝手なことをしているから、違った行動となって現れるのではないのです。
神様は、アブラム(後のアブラハム)には、見知らぬ場所に出かけて行きなさいと命じられ、彼はその言われた通りのことを行いました。それに対して、その子イサクには、今、自分のいるところに留まっておれと言われています。そして彼らはそれに従いました。
アブラム:
時に主はアブラムに言われた、「あなたは国を出て、親族に別れ、父の家を離れ、わたしが示す地に行きなさい。わたしはあなたを大いなる国民とし、あなたを祝福し、あなたの名を大きくしよう。あなたは祝福の基となるであろう。あなたを祝福する者をわたしは祝福し、あなたをのろう者をわたしは のろう。地のすべてのやからは、あなたによって祝福される」。アブラムは主が言われたようにいで立った。(創世記十二章一節)
イサク:
..またききんがその国にあったので、イサクはゲラルにいるペリシテびとの王アビメレクの所へ行った。その時、主は彼に現れて言われた、「エジプトへ下ってはならない。わたしがあなたに示す地にとどまりなさい。あなたがこの地にとどまるなら、わたしはあなたと共にいて、あなたを祝福し、これらの国をことごとくあなたと、あなたの子孫とに与え、わたしがあなたの父アブラハムに誓った誓いを果そう。またわたしはあなたの子孫を増して天の星のようにし、あなたの子孫にこれらの地をみな与えよう。そして地のすべての国民はあなたの子孫によって祝福をえるであろう...」。こうしてイサクはゲラルに住んだ。( 創世記二六章一節後半~六節)
どちらも、異なる神様からの指示でしたが、彼らは神への従順ゆえの祝福を受けました。神様が私たちに望んでおられることは、それぞれに異なります。したがって、何々をしているから神様の御心を行っているとか、また何々を行っていないから神様の御心を行っていない、ということは一概には言えないのです。
各自はそれぞれ、神様が自分に望んでおられることについて信仰と確信をもっているべきです。比べ合って、誰が何をしているとか、していないとか考えるより、むしろ自分は神が自分に望まれていることをしているだろうかということに集中し、吟味してみるべきです。
神はそれぞれに特別な御計画をお持ちです。自分に対する神のささやきにアンテナを立て、それに対して従順でいられますように。
あなたの持っている信仰を、神のみまえに、自分自身に持っていなさい。自ら良いと定めたことについて、やましいと思わない人は、さいわいである。(ローマ十四章二二節)
そして、神のみまえには、あらわでない被造物はひとつもなく、すべてのものは、神の目には裸であり、あらわにされているのである。この神に対して、わたしたちは言い開きをしなくてはならない。(ヘブル四章十三節) わたしたちは、生きるのも主のために生き、死ぬのも主のために死ぬ。だから、生きるにしても死ぬにしても、わたしたちは主のものなのである。
(ローマ十四章八節)