五月二七日 母に見る神の愛 (二〇一三年 ひとしずく一二六〇)
北海道に行く前に、術後のリハビリを行っている母に会いに病院へ行きました。病院近くに住んでいる弟もやってきてくれました。
別れ際になって母が、 私たちに自分の心の内を分け合ってくれました。
「私がね、なぜ、手術を受けることにしたかというとね・・・」と話を切り出しました。
母の言葉は私の注意を惹きました。私は母の手術については反対でした。しかしちょうど私が秋田にいなかった時に、母と弟と医師との間で、受けることに決めてしまったので、母がどうして手術することを決意したのかその理由を知りたいと思っていました。
母は、医師からこう説明されていました。「今度倒れたら、命に関わる問題で、助かったとしても色々な障害を抱えることになるでしょう。手術をすれば、しばらく元気に生きて行けると思います。しかし、何しろ大手術なので、手術が成功するとははっきり約束はできませんが。しかし手術を受けないと2年以内に倒れる可能性大です」
この言葉を聞いて母は、もしまた倒れて、死なずに障害が残れば、私たちに迷惑をかけてしまう、それなら手術をして、たとえそれで失敗して死んだとしても、それでいいと思ったのだそうです。
私は、母が医師に手術をすると返答したことを聞いて、ちゃんとよく考えた末に決めたのだろうか、と思っていました。しかし、そんなにあっさり手術を決めたのは、母は、死んでもかまわないと思っていたからだったのです。
母の生き方は相変わらずだと思いました。酒飲みだった夫に最後まで仕え、畑の作物を他の人たちに分け合うことを喜びとし、動けなくなって迷惑をかけるのだったら、死を受け入れる・・・。
母のような生き方に、私たちは、心の中であるいは霊の内に感動するし、これはイエス様に現れる神様の愛に通じることで、それが真の「道」なんだろうと思います。
イエス様は「私は道であり、真理であり、命である」と言われました。
イエス様は、私たちが罪赦されて、神様の祝福を受け、永遠に生きることができるようにと、自分の体を命のパンとして差し出して下さいました。それは、彼の死によって私たちが生きるためでした。
「わたしは命のパンである。 あなたがたの先祖は荒野でマナを食べたが、死んでしまった。 しかし、天から下ってきたパンを食べる人は、決して死ぬことはない。わたしは天から下ってきた生きたパンである。それを食べる者は、いつまでも生きるであろう。わたしが与えるパンは、世の命のために与えるわたしの肉である」。(ヨハネ六章四八~五一節)
神の御子ご自身が、私たちのために命を与えられ、それによって私たちが生きるようにしてくださいました。そしてそれは、私たちも主のように生きるため、すなわち、自分の命を他の人が生きるために与えるようにと、道を示してくださったのです。
その深い主の愛が、私たちに自己中心という本能を超えて、日々、他の人のために命を捧げて生きられるよう、導いてくださいますように。
主は、わたしたちのためにいのちを捨てて下さった。それによって、わたしたちは愛ということを知った。それゆえに、わたしたちもまた、兄弟のためにいのちを捨てるべきである。(第一ヨハネ三章十六節)
よくよくあなたがたに言っておく。一粒の麦が地に落ちて死ななければ、それはただ一粒のままである。しかし、もし死んだなら、豊かに実を結ぶようになる。(ヨハネ十二章二四節)
自分の命を救おうとするものは、それを失い、それを失うものは、保つのである。(ルカ十七章三三節)