五月十三日 赦されるために (二〇一二年五月 ひとしずく八二一)
「神様に赦されるためには条件がある」 こう言うと、それではイエス様の深い愛、赦しの愛はどうなるのだ? イエス様の赦しはそのようなものではないはずだ・・・と言う人もいるかもしれません。
しかし、聖書を読むと、赦されるにはやはり条件があるのです。人を赦すという条件が。
もし人をゆるさないならば、あなたがたの父も、あなたがたのあやまちをゆるして下さらないであろう。(マタイ六章十五節)
あなたがためいめいも、もし心から兄弟をゆるさないならば、わたしの天の父もまたあなたがたに対して、そのようになさるであろう。(マタイ十八章三五節)
このように、私たちが罪を赦していただくためには、私たちも他の人を赦さねばならないのです。
他の人を赦さないなら、私たちは神様から赦して頂けず、自分で自分の罪を償わなければなりません。それは大変なことです。いえ、とても償いきれるものではありません。「ごめんなさい」「すみませんでした」とあやまることはできても、その人の傷が癒えるには何年も、あるいは一生かかる場合もあるでしょうし、取り返しのつかないこともあります。
罪の償いができない私たちだからこそ、主は憐れんで、私たちが罪の赦しを受けることができるように、自ら代価を払ってくださったのです。そして私たちは、それを無償で受け取ることができるのです。
まだ罪人であった時、わたしたちのためにキリストが死んで下さったことによって、神はわたしたちに対する愛を示されたのである。(ローマ五章八節)
神様の愛とは、私たちが神様をどう思うかに関係ない一方的で深い愛です。しかし、そんなに大きな愛と赦しを頂いていながら、他の人を赦さないとなると、私たちはかなり自分勝手な人間と言えるでしょう。あの一万タラントの負債を赦された者のように。彼は、王の憐みを受け赦してもらったにも拘わらず、自分に百デナリを借金して返さない者を赦さず、捕らえて牢獄に入れてしまったのです。(一デナリは当時の労働者一日分の賃金の額であり、一タラントは六千デナリ)そして、その一万タラントの負債を赦された者のしたことが、王様の怒りを買い、その男は牢屋に入れられてしまったのでした。(マタイ十八章二三~二八節)
ここで、主が牢獄のたとえをされていることは興味深いと思います。相手を赦さないで牢の中に閉じこめると、自分自身が、王によって牢に入れられてしまう。つまり、相手を赦さず束縛する者は、その束縛をもって自分を拘束してしまっているのです。
私たちは、自分がどれだけ神様に赦されている存在かということを、つい忘れてしまいがちです。だからすぐに、相手の小さな間違いに目が行き、それを咎めてしまいたい誘惑に駆られてしまうのです。
人を赦さないということは、苦い思いを心に抱き続けていることです。そして、その苦い思いは自分の心を蝕んでしまいます。人を赦したくないという誘惑に駆られた時には、自分がいったいどれほどの憐れみを神から受けているかを考えなければならないと思います。その大きさを私たちはなかなか悟れないものです。そして、おそらく自分に注がれている神様の赦しと愛は、生涯、完全には理解したり悟ったりすることはできないものなのかもしれません。理解も感謝もしない者たちにも、なお神様は忍耐深く愛情深くして下さっているというところが現実なのだと思います。
自分の罪が赦されていないと感じる人は、もしかしたら、誰かに対する苦い思いという牢獄にまだ自分が閉じこめられているという状態なのかもしれません。
主に祈り、誰に対しての恨みも憎しみも、全て洗い清めて頂けますように。そして私たちが、自分もまた赦されなければならない存在であることを、肝に銘じて生きて行けますように。
互いに情け深く、あわれみ深い者となり、神がキリストにあってあなたがたをゆるして下さったように、あなたがたも互いにゆるし合いなさい。(エペソ四章三二節)
わたしたちに負債のある者をゆるしましたように、わたしたちの負債をもおゆるしください。(マタイ六章十二節)
(主人は言った、)「・・・わたしがあわれんでやったように、あの仲間をあわれんでやるべきではなかったか」。そして主人は立腹して、負債全部を返してしまうまで、彼を獄吏に引きわたした。あなたがためいめいも、もし心から兄弟をゆるさないならば、わたしの天の父もまたあなたがたに対して、そのようになさるであろう。(マタイ八章三三~三五節)
ペテロがイエスのもとにきて言った、「主よ、兄弟がわたしに対して罪を犯した場合、幾たびゆるさねばなりませんか。七たびまでですか」。イエスは彼に言われた、「わたしは七たびまでとは言わない。七たびを七十倍するまでにしなさい。...」(マタイ十八章二一、二二節)