ひとしずく1524-空白
今日、「墨美展」という美術展に招かれ、行って来ました。そこに私の娘の作品も展示して 頂いています。指導してくださった先生のおかげで、娘の初の作品でしたが、なかなかメッセージがこめられた作品のように思え霊感されまし た。
ところで、その時頂いたパンフレットに興味深いことが書かれていました。それは「余白の 美」という題で、いかに何も描かれていない部分が大切な役割を果たしているか、というような内容でした。
私は、このメッセージに出会えたことは大きな収穫であったと思いました。
人は普通、何もない空の状態、沈黙、孤独な状態を恐れます。何かをしていなければならな い、スケジュールも隙間無く全て何かの事で満たしていなければ気がすまない。空間もあらゆるもので一杯にしてしまいたい、静けさも音楽で または誰かとおしゃべりすることによって消し去りたい。こういった傾向が私たちにあるのではないでしょうか。常に空間も時間も、何かで埋 めていないと気がすまないのです。そして、ついには頭の中まで常に何かを思いめぐらし、それで一杯になってしまっているのです。しかし、 それでは本当に大切なもの、メインとなるものが見えなくなってしまうのではないかと思います。
最近、砂漠が大好きだと話す友人がいました。彼が砂漠を好きなの は、そこは何もないので、神の存在をもっと感じるということのようでした。砂漠にあるのは、ただ砂だけでそれ以外のものは何もありませ ん。しかしそこに確かに存在しておられる 方がいます。神です。何もないからこそ、そこに神しかお られないことを感じ取りやすいというのはわかる気がします。確かに、空間もなく、いつも時間に追われ、目も耳も思考も何かに奪われている なら、神のことを考えることなどなく、神の存在を忘れてしまいそうになるでしょう。
これは余白というより、空白といった方が良いかと思いますが、私 たちは意識して、「空白」を大切にし、神ならぬもので埋め尽くしてしまわないように努力する必要があると思います。何もないところで神と の交わりをもち、静けさの中で神の声を聞くために。神がその空白の存在を許されました。何も無いことを恐れるべきではありません。私たち の神は「無から有を呼び出される神」(ローマ4:17 )であり、光あれ、という言葉一つで、光を造り出すことのできる 方なのです。(創世記1:3)
この神との結びつきが強くなればなるほど、神様のそうした御性 質、また神には不可能はないという事実が、私たちが、空白を恐れないものになるのを助けてくれるのだと思います。空白は、神の力があらわ されるための舞台に過ぎないからです。
闇を光に、負を正に、無から有を生じさせ愛の御業をなさって下さる神であるイエス様に しっかりとつながっていることができますように。
「静まって、わたしこそ神であることを知れ。」(詩篇46:10a)
「彼(神)は北の天を空間に張り、地球を何もない所に掛けられる。」(ヨブ26:7)
「わたしは光を造り、また暗きを創造し、平和を造り、また災いを創造する。わたしは主であ る。すべてこれらのことを成す者である。(イザヤ 45:7)
「小羊が第七の封印を解いた時、半時間ばかり天に静けさがあった。」(黙示8:1)