空白

j
2024年4月26日

ひとしずく1524-空白

 今日、「墨美展」という美術展に招かれ、行って来ました。そこに私の娘の作品も展示して 頂いています。指導してくださった先生のおかげで、娘の初の作品でしたが、なかなかメッセージがこめられた作品のように思え霊感されまし た。

 ところで、その時頂いたパンフレットに興味深いことが書かれていました。それは「余白の 美」という題で、いかに何も描かれていない部分が大切な役割を果たしているか、というような内容でした。

 私は、このメッセージに出会えたことは大きな収穫であったと思いました。

 人は普通、何もない空の状態、沈黙、孤独な状態を恐れます。何かをしていなければならな い、スケジュールも隙間無く全て何かの事で満たしていなければ気がすまない。空間もあらゆるもので一杯にしてしまいたい、静けさも音楽で または誰かとおしゃべりすることによって消し去りたい。こういった傾向が私たちにあるのではないでしょうか。常に空間も時間も、何かで埋 めていないと気がすまないのです。そして、ついには頭の中まで常に何かを思いめぐらし、それで一杯になってしまっているのです。しかし、 それでは本当に大切なもの、メインとなるものが見えなくなってしまうのではないかと思います。

最近、砂漠が大好きだと話す友人がいました。彼が砂漠を好きなの は、そこは何もないので、神の存在をもっと感じるということのようでした。砂漠にあるのは、ただ砂だけでそれ以外のものは何もありませ ん。しかしそこに確かに存在しておられる 方がいます。神です。何もないからこそ、そこに神しかお られないことを感じ取りやすいというのはわかる気がします。確かに、空間もなく、いつも時間に追われ、目も耳も思考も何かに奪われている なら、神のことを考えることなどなく、神の存在を忘れてしまいそうになるでしょう。

これは余白というより、空白といった方が良いかと思いますが、私 たちは意識して、「空白」を大切にし、神ならぬもので埋め尽くしてしまわないように努力する必要があると思います。何もないところで神と の交わりをもち、静けさの中で神の声を聞くために。神がその空白の存在を許されました。何も無いことを恐れるべきではありません。私たち の神は「無から有を呼び出される神」(ローマ4:17 )であり、光あれ、という言葉一つで、光を造り出すことのできる 方なのです。(創世記1:3)

 この神との結びつきが強くなればなるほど、神様のそうした御性 質、また神には不可能はないという事実が、私たちが、空白を恐れないものになるのを助けてくれるのだと思います。空白は、神の力があらわ されるための舞台に過ぎないからです。

 闇を光に、負を正に、無から有を生じさせ愛の御業をなさって下さる神であるイエス様に しっかりとつながっていることができますように。

「静まって、わたしこそ神であることを知れ。」(詩篇46:10a)

「彼(神)は北の天を空間に張り、地球を何もない所に掛けられる。」(ヨブ26:7)

「わたしは光を造り、また暗きを創造し、平和を造り、また災いを創造する。わたしは主であ る。すべてこれらのことを成す者である。(イザヤ 45:7)

「小羊が第七の封印を解いた時、半時間ばかり天に静けさがあった。」(黙示8:1)

他の投稿もチェック

聖 書に書かれている農業

ひとしずく1554-聖 書に書かれている農業  先日、創世記を読んでいて、一つ発見がありました。それは、人はエデンの園に置かれた時、神様から園を耕すようにと言わ れていたことで す。私はずっと、畑を耕すことは、アダムとイブが罪を犯して、エデンの園から出されてから神様から課せられた仕事だと思っていました。しかし創世記2章に は次のように書いてあります。  「主なる神は人を連れて行ってエデンの園に置き、これを耕させ、これを守らせられた。」 (創世記2:15)...

主 よ、いつまでですか? 

ひとしずく1553-主 よ、いつまでですか?  世の中が乱れる時、神を知る民は、いつ介入してくださるのかと神に叫び求めたくなります。 救いの神であり、裁き主であられる神がおられるなら、すぐにでもこの邪悪な世界に介入して、物事を正してほしいと。 主が雲に乗って再臨されること、そして、それから始まる至福千年は、私たちにとってとても 待ち遠しいことです。特に悪いニュースがこれだけ続く と、主よ、早く戻って来てください、と、もう待ち切れないほどです。これほど邪悪な時代が今まであったであろうか、と思ってしまいます が、幾千年も前に...

基本に戻る

ひとしずく1552-基本に戻る   もしも、自分の霊的状態の不調に気づいたなら、 基本に戻ることを考えてみるのは良いかもしれません。   少し前、知人の書道の先生が、基本に戻って練習を積む事を今でもされるということを言っていましたが、それはスポーツにおいても何につい ても、適用できることでしょうし、これは信仰の歩みについても言えることだと思います。   私たちは日常生活で、複雑な状況によく直面し、もっと高度な信仰による力が必要に思えたりしますが、実は、一つ一つの信仰の基本がしっか...