視線の行方

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2024年3月31日

ひとしずくー755-視線の行方

ある研究チームがチンパンジーと人間の赤ちゃんの視線の動きについてこんな研
究結果を発表しました。
人間の赤ちゃんは生後八ヶ月と一歳、チンパジーは5歳~12歳(人間では小学生から高校生に相当する年齢)に、女性がペットボトルに入っている ジュースをコップに注ぐ動画を見せ、それぞれの視線の動きを調べたそうです。チンパンジーの方は、ペットボトルや、ジュース、コップに視線が注がれ、女性の顔にはほとんど視線が行かなかったのに対して、人間の乳幼児の方 は、女性の顔を長時間見ていたといいます。
 明和准教授は「赤ちゃんは、顔を一生懸命見て、心の状態を読み取ろうとする。行為の表面的な部分だけではなく、心の状態と照らし合わせ、次の展 開を予測するように発達していく」と語っています。(東京新聞の記事より参考)

 とても興味深い研究結果だと思いました。そして、私はこの聖句を思い出しました。

「肉に従う者は肉のことを思い、霊に従う者は霊のことを思うからである。肉の思いは死であるが、霊の思いは、いのちと平安とである。」(ローマ 8:5,6)

 神様が、私たち人間を他の動物と異なって創られた決定的なこと、それは必ずしも全ての人間がというわけではありませんが「霊に従い霊のことを 思って」生きることができるということではないでしょうか? そして神様はそれを望まれています。しかし、残念ながらある人は(時には私たちも霊のことを思わないで、肉に従い肉を思って生きているのです。この両者の違いは、人間の赤ちゃんとチンパンジーの違いと同じだと思います。つまり、 視線がどちらに向けられているかなのです。

たとえば、自分の欲しいものが差し出された時、私たちの視線はどちらに向けられているでしょう?その自分が欲していたものでしょうか?それともそ れを差し出してくださった方でしょうか?普通は、それを差し出してくださった方に目を向け、その方に感謝すると思います。しかし、自分の欲しいも のを夢中で追い求めていたり、その欲しいものに執着している時、人は、そのものの囚われ人となり、与え主の存在を忘れてしまうのではないでしょう か?

それは先の研究結果に照らし合わせていうなら、チンパンジーと同じです。そして、次第に人の顔を見て心を読み取っていくという、人間本来の性質を 失い、肉に従い肉のことばかりを思う生き方に定着してしまうのではないでしょうか?

 神様こそ、あらゆるものの源であられ、全てを供給される方です。私たちは、ものに目を留めるよりも、それらを豊かに供給される神様に目を留める べきです。自分が欲しかったもの、喜ぶものを与えてくださる愛情深い主の思いを知ることこそ、本当の祝福であり、幸せだと思います。
 そして私たちの目が、全ての源であられ、愛ゆえに供給される方に留められて初めて、神様が意図された、真の人間らしさをもって生きて行けるのだ と思います。
  それは逆に自分の欲しいものではないものが与えられたときにも、それを差し出す方の、愛情深い御顔を仰ぎ、その方の思いと計画を信じ、感謝して受 け取ることができるのではないでしょうか?

主は霊です。したがって、霊に従い霊のことを思って生きるとは、主に従い、主のことを思って生きるということです。そのことを覚え、常に自分の視線の行方を意識していたいものです。<つまり自分の思いは何に向けられているかを常に吟味して生きていたいものです>

「しかし主に向く時には、そのおおいは取り除かれる。主は霊である。そして、主の霊のあるところには、自由がある。わたしたちはみな、顔おおいなしに、主の栄光を鏡に映すように見つつ、栄光から栄光へと、主と同じ姿に変えられていく。これは霊なる主の働きに よるのである。」(第二コリント3:16-18)

わが岩、わがあがないぬしなる主よ、どうか、わたしの口の言葉と心の思いがあなたの前に喜ばれますように。(詩篇19篇14節)

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