ひとしずく748-口の言葉
何を語ろうとしているのか?
それを語る必要があるのだろうか?
その必要とは、自己を弁護し、相手を打ち負かすためのものなのだろうか?
相手を中傷してまで、勝たなければならないほど、それは価値あることなのか?
もし中傷することが、いたずらに相手の心を傷つけるだとしたら、私たちはまず第一に、
このことに関わるべきなのだろうか?
私たちが神様から与えられた使命は、相手の善し悪しを言うことと何の関係があるのか?
語らないと、神様の御国にとって何か損失が生じるのだろうか?
相手をあざけり、こきおろすという手段を使って、自分の ゴールにたどりついたとしても、
それを神様はお喜びになるだろうか?
もしそうでないなら、その時、私たちは沈黙を守るべきな のだ
人を批判し、こき下ろす場面と言えば、選挙演説、国会討論、などが思い浮か びます。
それはすさまじい中傷合戦です。相手について、自分はまるで完璧な者ででも あるかのように、ありったけの悪口を声高らかに話すのです。政策批判に留まらず、 相手の人格をけなすようなことも平気で言います。そしてその同じ口から、子供の教育や福祉問題などについて語られるのです。自分が実権を 握るなら、もっと良い政治を行うから、そのためにはどんな手段を使ってもかまわないということが、まかり通っているようです。これでは、 一方で優れた政治理念や、政策を語っても、他方で、造り上げたものを打ち壊すということになってしまうのではないでしょうか?
これは相手に対する理解と尊敬の無さから、来ているのではないかと思いま す。
そしてこういうことは、政治 に関わらず、私たちの生活のあらゆる場においてもあるのではないでしょうか?相手を引き下げることによって自分を高めるということは、人 間の本能とも言えるものかもしれません。学校でのいじめや、近所の噂話、家庭での会話、また自分の思いの中でも、その本能は頻繁に顔を出 てしまっ ているというのが現状ではないかと思います。
人の悪口や中傷は、多くの場合、法律違反ではないかもしれません。しか し、決して神様の望まれていることではないと思います。詩篇1篇に「あざける者の座に座らぬ人は、幸いである」とあり、また15篇には「[神の御前]に宿るべき者は誰です か…その舌をもってそしらず…隣 り人に対するそしりを取りあげず」とあります。
神様の御心は、イエス様が弟子たちをこの世に残して、天に帰られる時の祈りにあるように、私たち皆が「一つ」になること だからです。
「わたしは、もはや世にはいません。彼らは世に残りますが、わたしはみもと に参ります。聖なる父よ、わたしに与えてくださった御名によって彼らを守ってください。わたしたちのように、彼らも一つとなるためで す。」(ヨハネ17:11)
地上の目標到達のためには、相手を傷つけても 構わないという態度だと、人生の決算の際に、きっと悔いることになるのではないかと思います。主は、それを赦されるでしょうし、相手も赦 してくれることでしょう。主の愛は、私たちが「赦し合う」ことに導かれるでしょうから。
しかし、如何に神様が神様の御国を愛によって造り上げ、私たち一人一人がしっかりと愛によって結び合わされることを望ん でいたかということに気づいた時、私たちは、自分の語った言葉について悔い、またもっと親切で、励ましに満ちた言葉を語っていたら良かっ たと思うことでしょう。
主は、私たちに主の愛を実感してほしいと願っています。神様は愛です。どれ だけ、一人一人が愛すべき存在で、尊いかということを、主は示そうとしておられます。そのために、主は命を捨てられました。今、さらに主 は、聖霊を遣わして、慰めや助けや、導きを与えて下さっています。そして聖霊は、休むことなく取りなしていて下さっているのです。ですか ら私たちは、神様の愛を伝えるために地上に使わされている神様の体の肢体として(口も含めて)、愛の道具となれるよ う、励もうではありませんか。(祈 り:)主よ、私の思いがあなたの前に知られても、恥ずかしくない生き方であるなら、また、私の思いが人の前にさらけ出されても、構わない ようなものになれたら素晴らしいと思います。私たちの肉の業には、何の良いところもありません。しかし、私の内に宿る聖霊が私の思いを照 らし、愛で満たしてくださる時、 きっと私の口からこぼれる言葉は、相手に対する愛と癒しと励ましになることでしょう。 何故なら、聖霊の本質は、愛であり、思いやりであり、慰めであり、知恵と真理だからです。 どうか聖霊で、私たちの心を満たして下さい。あなたの思いが私たちの思いとなりますように。
「あなたがたに言うが、審判の日には、人はその語る無益 な言葉に対して、言い開きをしなければならないであろう。」(マタイ12:36)
「自分自身を神にささげ、自分の肢体を義の武器として神にささげるがよい。」(ローマ6:12)
「わが岩、わがあがないぬしなる主よ、どうか、わたしの口の言葉と、心の思いがあなたの前に喜ばれますように。」(詩篇 19:14)
「主なる神は、弟子としての舌をわたしに与え、疲れた人を励ますように言葉を呼び覚ましてくださる。朝ごとにわたしの耳を 呼び覚まし、弟子として 聞き従うようにしてくださる。」(新共同訳イザヤ 50:4)