雪球(ゆきだま)

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2024年3月23日

ひとしずく741-雪球(ゆきだま)(2012年3月)

 二十四歳になる娘と一緒に、秋田に帰る途中でのことです。岩手と秋田の県境の峠を越えて山道を降りて行くと、とても不思議で美しい光景に出会いました。
  ここ二日ばかりは雪が降らず、暖かい日が続いていたせいか、道路の両脇にはまだ雪の壁が続いているものの、その背後に広がる林は、雪が溶 け、こげ茶や灰色 の木々が、その幹や枝を露にしていました。そして何が私たちの目を引きつけたかというと、木々に大きな雪の白い球が、いくつも乗っている 光景です。木に積 もった雪は溶け始めていたのですが、枝と枝の分かれ目のところや、小枝が密集しているところには雪が丸く固まって残っていて、白い球を 作っていたのです。
 その白い球は直径が50センチほどのものもあれば1メートルほどあるもの もありました。辺りは靄(もや)がかかっていたので、まるでそのいくつもの白い球が浮いているように見えました。その幻想的な光景がしば らく車窓に流れました。

恐らく私のつたない表現では、うまく想像できないことと思います。しかし、 もしかしたらこの風景の写真を見せたとしても、果たして信じてもらえるだろうかとさえ思うような本当に不思議な光景でした。

 私たちは、この幻想的な光景に見とれながら、こんな会話を交わしていまし た。

私:「これ、写真に撮って人に見せても、実際の風景だとは信じてもらえない かもね」

娘:「そうだね。きっと写真にコンピューターで描き足したと思うかもね。 今、トリック・アートが流行っているからね」

  私:「これはいくら説明しても、実際に見ないと、絶対わかってもらえないだろうな・・・。こういうことって、聖書の真理についても言える んじゃない?信じ ている私たちにとっては、イエス様の存在や、霊の世界のことが真実だとわかるけど、信じようとしない人にとっては、奇妙でばかげた話にし か思えないことが あるでしょう?」 娘はうなずきました。 

実は、この雪の球の光景に出くわす前に、私はちょうど、昔、体験した不思議 な霊的体験の話を娘にしていたのでした。ある人たちに、神様の存在や奇跡のことを説明しても「そんなこと、あり得ない。現実とかけ離れている」と言います。いくら真実だと言って 説明しても、なか なか信じてくれないのです。臨死体験した人や、霊の体験をした人たちの中には、それを話しても、人が信じてくれなかったり、自分を気味悪 がったりするので、 それらのことを口にしなくなってしまったという人もいるようです。 実は私にもそのような経験があります。不思議な霊的体験をしましたが、聞 く人にどうやって説明したら良いのかわからず、今まであまり話さずに来たのです。

   それは、私がまだ学生の頃の話です。訳あって、それまで住んでいた新潟のあ る町を後にし て、着のみ着のまま、電車に乗って、新潟の直江津の駅に降り立ったのでした。私は主に仕える新しい人生を求めていました。しかし、そのた めにはどうしたら 良いのかもわからず、また、どこに行く当てもありませんでした。私は駅の待ち合い室に座り祈っていました。目の前には、ストーブで暖を とって列車の出発を 待っている人たちがいました。その時私は、その人たちに証し(伝道)をするべきだと思いましたが、そんなことをしても無駄なような気もし て、それができず にいました。その頃の私は、個人伝道などあまりしたこともなく、不安で確信が無かったのです。そして何もできない まま、数時間が経ちました。しかし、思いの中では、何もしていないわけではなく、信仰と疑いの熾烈な戦いが繰り広げられていて、私はずっ と祈り続けていま した。

 そして、ふと何気なく顔を上げて待ち合い室の上の方を見ました。すると、 何と不思議な光景が見えたのです。といっても、それは目で見たという感覚ではなかったのですが、ヘブル12章1節にある「雲のように私た ち取りを囲む多くの証人たち」をはっきりと感じたのです。  天にいる大勢の証人(天使)たちが、皆、私を見ていまし た。私の決断を固唾(かたず)を飲んで、見守っているのがわかりました。 それは目で見ること以上に、確かな感覚でした。そして、お互いに相手の心 というか思いがわかるのです。 こういう体験をどう説明したら良いのかわかりません。五感では感じていな いのですが、確かにその存在を感じ、真実だと確信したのです。 私はその時、はっきり心が定まりました。生涯、主に仕える決断を下したの です。そして私は立ち上がって、その待合室にいる人たちに、主のことを証ししたのでした。 その後すぐに、以前、出会った宣教師に奇 跡的に連絡をとることができ、私はその仲間に加わり、以来何十年の間、宣教師として現在に至るまで主に仕えて生きてきたのです。

 この霊的体験は、他のどんなことよりも、私に「主のために生きる」という 確信を与えるものでした。

そしてそれは、この靄に浮かぶ雪球の光景と同じだと思いました。それは人の 目には不思議で信じ難いものだけれど、真実なのです。「彼(神)が大いなる事をされることは測りがたく、不思議な事をされること は数知れない。」(ヨブ9:10)「人々が熱心に追い求めて捜しさえすれば、神を見いだせるようにして下さっ た。事実、神はわれわれひとりびとりから遠く離れておいでになるのではない。」(使徒17:27) 

「こういうわけで、このように多くの証人たちが、雲のように私たちを取 り巻いているのですから、私たちも、いっさいの重荷とまつわりつく罪とを捨てて、私たちの前に置かれている競走を忍耐をもって走り続 けようではありませんか。」(へブル12:1)

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