ひとしずく739-本当の所有とは「与えてしまうまでは所有していることにならない」
最近、読んだ本に、こんな言葉がありました。考えてみると、私たちはこの地上で、どんなものもいつまでも持っているということはできません。 肉は朽ち、死を迎えます。その時、この地上で手に入れたあらゆる財産も、そして名誉も地位も、何一つ携えていけるものはありません。
しかし、天国に持っていけるものもあります。それは他の人に与えた愛です。そして分け与えたことのその喜びは、天国でなくてもこの地上でも味わうことができるのです。
イエス様は、地上に宝を蓄えるのではなく、天に宝を蓄えなさいと言われました。そして受けるよりも与える方が幸いであるとも。 自分のものを人と分け合う、つまり祝福を共有することによって、何倍もの祝福を互いに喜び合えるのです。反対にそれを分かち合わず、自分だけで独り占めするなら、その祝福は半減するばかりか、何の喜びも得ないことになります。聖霊が、他の人と分かち合うようにと促しているのに、その声に逆らっているなら、常に、どうして与えるべきなのかという言い訳と心満たされない思いを抱えて、喜びのない殺伐とした人生を送ることになるのではないでしょうか?
与えるまでは、失うことについての恐れに攻撃されるかもしれません。特に自分が大切にしているもの、また、自分さえ十分に持っていないものを与えなければならないという場合には、その恐れは大きなものになるでしょう。それは、思いの根底に、これは自分のものだという考えがあるからなのかもしれません。
私たちはこの世では、旅人であり寄留者にすぎません。そして自分が持っているものの全ては、神様から与えられたものにすぎないのです。このことをいつも覚えているなら、聖霊が与えるよう促す時、もっとためらうことなく、速やかに与えることができるのではないでしょうか?そして気付くでしょう。与えたことによって、何も失うことはないということに。神様は、私たちを愛し喜ばすために与えて下さるのですから、それを主が与えるように言われるなら、それにはより良い理由があるはずで、主はそれを御存知の上で、与えるように語りかけておられるのだと思います。
主は、私たちがあまりにも、この世のものに固執しないように、それらを一時的に取り去られる時さえあると思います。それは、大切なのは霊であり、イエス様さえおられるなら、それで十分であることを私たちに悟らせるためなのでしょう。したがって、何かを与える時、また取り去られる時、それはこうした主からの恵みの時でもあるということを覚えていられたらと思います。 時に与えることは痛いでしょう。しかし、主はそんな私たちの気持ちをよく理解して下さっており、私たちがこの人生の旅を終え、天に着いた時、主は私たちが与えた幾倍もの祝福を返して下さるのです。
喉の渇きを癒すために与えたコップ一杯の水は、命の水となって報いられ、着る物が無くて、凍えている人に与えた衣服は、光の衣として報いられ、相手の喜びのために、与えられた自分の持ち物は、心の願いが叶えられることによって報いられ、助けを必要とした人に与えられた小さな励ましのひと言は「あなたに、任せたいものがある」という主の御言葉で報われるのかもしれません。
ある人は、天国に行った時、主と共にいられるなら、何もいりません、と言うかもしれません。そうです。この地上でも天国においても、主に愛されているという信仰の中に歩めることこそ、最高の祝福だと思います。しかし、主はやはり私たちを喜ばせたくて、あらゆる天の宝を与えずにはおられないことでしょう。
(祈り)イエス様、あなたは私たちのために御自分の命さえ与えるのをいといませんでした。どうか、私たちもあなたのような愛を持てるように助けて下さい。あなたが聖霊によって与えるよう促される時、私たちが持っている祝福を、即座に与えることができますように。それによって、あなたの愛と喜びを、一人でも多くの人と分かち合い、それが少しでも遠くに広まりますように。「わたしの父に祝福された人たちよ、さあ、世の初めからあなたがたのために用意されている御国を受けつぎなさい。」(マタイ25:34)
「受けるよりは与える方が、さいわいである」(使徒行伝20:35)
「あなたがたは自分のために、虫が食い、さびがつき、また、盗人らが押し入って盗み出すような地上に、宝をたくわえてはならない。 むしろ自分のため、虫も食わず、さびもつかず、また、盗人らが押し入って盗み出すこともない天に、宝をたくわえなさい。
あなたの宝のある所には、心もあるからである。」(マタイ6:19-21)「ご自身の御子をさえ惜しまないで、わたしたちすべての者のために死に渡されたかたが、どうして、御子のみならず万物をも賜わらないことがあろうか。」(ローマ8:32)
「友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない。」(ヨハネ15:13)
「イエスは、わたしたちのために、命を捨ててくださいました。そのことによって、わたしたちは愛を知りました。だから、わたしたちも兄弟のために命を捨てるべきです。」(第一ヨハネ3:16)