ひとしずく738-初めであり、終わりである神
「恐れるな。わたしは初めであり、終りであり、また、生きている者である。わたしは死んだことはあるが、見よ、世々限りなく生きている者である。そして、死と黄泉とのかぎを持っている…」(黙示録1:17,18) この「わたし」とは誰のことでしょう?「死んだことはあるが、見よ、世々限りなく生きている者」そうです。それは、十字架で命を捧げ、三日後に甦られたイエス様です。その主がこう言われています。
「わたしは初めであり、終わりである」
主は時を越えておられ、過去にも未来にも、そしてもちろん今にも生きておられる神です。そして現在を永遠の観点から見ておられ、また現在にいながら、永遠の全てを知っておられるのです。 したがって聖書の中で、神様の語られた言葉に関しても言えることは、神様が何かを語られる時、それは永遠の観点から見て、語っておられるということです。 ただ、私たちは一度に多くの真理を受け入れることができないために、主はそれを調整して語られることもあります。そして、私たちの霊的成長や時に合わせて、真理の霊(聖霊)が私たちに全ての真理を教え、導いてくださるのです。聖書にこうある通りです。
「わたしには、あなたがたに言うべきことがまだ多くあるが、あなたがたは今はそれに耐えられない。けれども真理の御霊が来る時には、あなたがたをあらゆる真理に導いてくれるであろう。」(ヨハネ16:12)
主は、言うべきことがわからないとか、真理がまだはっきりしていないので、後でわかった時に教えると言われるのではありません。人の教えであるなら、そういったことがあるでしょう。しかし、イエス様は神であり、真理そのものなので、そのようなことは決してありません。今、語られない真実があったとしても、それはただ、私たちの理解力に合わせてくださっているからなのです。そしてたとえ、私たちに語ってくださった真理がわずかであっても、それは永遠に変わらぬ尊い真理なのです。
「私は道であり、真理であり、命である」(ヨハネ14:6) 天地創造の時から語られた言葉もすべて、永遠の神様が発せられた言葉です。 私たちがどこに生まれ、どんな形で人生のスタートをして、どのような時代に生きるかも、すべての時間を超越して見通される神様の善なるご計画の中で、主が備えてくださったものです。それは天地の創られる前からの神様のご意思がそこに反映されているものです。そのことを思うと本当にすごいと思います。 この地上での人生は、悩み悲しみ苦しみが本当に多いと思います。しかし、この事実を覚えていてください。変わることのない神様の深い愛と憐れみの中に、私たちは永遠に包まれているということを。
どうか、移りゆく地上のものに目を奪われて、永遠の命を持つイエス様から目をそらすことがありませんように。イエス様は永遠に変わることなのない、とこしえの岩です。「天地は滅びるであろう。しかしわたしの言葉は滅びることがない。」(マルコ13:3) 「イエス・キリストは、きのうも、きょうも、いつまでも変ることがない。」(ヘブル13:8)「今いまし、昔いまし、やがてきたるべき者、全能者にして主なる神が仰せになる、『わたしはアルパであり、オメガである(初めであり終わりである)』」。(黙示録1:8)