ひ としずく374-神の恵みを知る者となるために
天使みたいな子だったのに・・・。
無邪気で純真と思えた子供が、次第に真似てほしくないことを真似たり、反抗 的になったりします。それが外からの影響だったりすると、親として、何とかその影 響から守ろうと躍起になります。しかし、思春期のあからさまな反抗的な行動には、手の打ちようがないように思える時があるのです。
あの純真な天使がいなくなってしまった(ハ ハ、親バカです!)ことで、私は、がっかりしたり、どこで間違ってしまったのかと自分を責めたり、どうし たらいいのだろうと気を揉んだりしていました。
しかし次の聖句を見て、これで良いのだと思いました。
「聖書はすべてのものを罪の支配下に閉じ込めたのです。それは、神の約束 が、イエス・キリストへの信仰によって、信じる人々に与えられるようになるためでした」(ガラテヤ3:22)
この罪の支配下に閉じ込められるのは、純真な子供たちも当てはまるのでしょ う。私はそう思います。もし、子供が罪を犯さない聖徒であったら、キリストから赦される必要もなく、主の恵みとは無縁で生きることに なります。しかし彼らは、反抗心を抱き、間違いを犯し、親や周りの人を悲しませたりして、後になって自分の愚かさや罪深さに気づき、 キリストの赦しの有難さを知るのです。そして親に教えられたからでなく、自らの体験を通して、罪赦されたことの喜 びと、イエス様がそんな自分の罪のために死んで下さったことが、どんなに尊く深い愛であるか初めて理解できるのだと思います。
聖書には「少しだけゆるされた者は、少しだけしか愛さない」(ルカ7:47)とあります。
私は、子供に愛情深く、快く赦す性質を何よりも持ってほしいと願っています。しかし同時に、罪とは無縁に、純粋なままで育ってほしい と思うのは、矛盾している話です。
彼らは、その罪(「的を外す」というのが、「罪」のもとの意味です)を主から赦して頂いて初めて、間違いを犯す他の人を赦すことを学 べるようになるのでは ないかと思うのです。だから私は、子供たちが間違いを犯さないようにと躍起になるより、的を外した行動をしてしまっている時に、子供 たちがその間違いから学べるよ うに、またそれがどのように周りの人に影響を与えているかに気づけるように祈ろうと思います。(もちろん間違いに気づけるよう、話し てあげる必要があ る時もあるかもしれません。)また子供がそうした自分を、主が赦しの心をもって迎えようとしている愛を理解できるように、そして私自 身がそのような愛を反映できるように祈りたいと思います。
イエスが言われた、 「ある金貸しに金をかりた人がふたりいたが、ひとりは五百デナリ、もうひとりは五十デナリを借りていた。ところが、返すことができな かったので、彼はふたり共ゆるしてやった。このふたりのうちで、どちらが彼を多く愛するだろうか」。シモンが答えて言った、「多くゆ るして もらったほうだと思います」。イエスが言われた、「あなたの判断は正しい」。(ルカ7:41-43)