死ぬために生きる

ひ としずく369-死ぬために生きる

「死」について、どう考えていますか?とある人から尋ねられました。癌で、 医師から余命がどれくらいであるかを宣告された人でした。
そ の方は医学治療はしておらず、自分で食べ物から、日常生活のあらゆることまでいろいろ考えて生活していて、いつも死を意識して生きて おられるということでした。そして、癌とわかってからは毎日を大切にして生きているので、かえって良かったとも言っていました。

私はその方に「死」について最近考えていたことをこんな風に話しました。
「『人 は死ぬために生きている』のだと思います。ちょうど、小学生であるなら、小学校の卒業をゴールとし、それを目指して生きるようにで す。そしてその卒業を終 えたら、新しいコースが待っています。イエス様は、自分の命を与えるために来られました。そして人に仕え、ご自分の体を罪の赦しのた めに捧げるという、 地上での最後の務め、「死」を目指して生きられました。ですから、イエス様を信じる私達も同じだと思うのです」と。

そうです。私たちは皆、「死」に向かって生きているのです。そのゴールが早いか遅いかは人それぞれです。人は長く生きたいと思うで しょうが、その思いとは関係なく神様の御心の時に、私たちはこの人生を卒業し、天国と言う素晴らしい世界へと招待されるのです。

卒業は全ての人に訪れます。そして卒業の仕方もまた人それ ぞれでしょう。しかし大切なのは、卒業までの期間をどのように日々生きるか、あるいはどのように日々死ぬかということではないかと思 います。

主は、「だれでもわたしについてきたいと思うなら、自分を捨て、日々自分の 十字架を負うて、わたしに従ってきなさい」(ルカ9:23)
と 言われました。十字架とは自分を磔にする死刑道具です。その十字架を負うて主に従うとは、日々自分に死んで、イエス様に心と霊を支配 してもらい、主と共に生きるということです。

それによって、か えって私達は命を得、真に生きることになります。そして命は私達の内にとどまるだけでなく、他の人にも及ぶようになります。

「自分の命を得ている者はそれを失い、わたしのために自分の命を失う者は、 かえってそれを得るのである」(マタイ10:39)

「こうして死は私達の内に働き、いのちはあなたがたの内に働くのであ る」(第二コリント4:12)

で すから、「死に直面して生きる」というのは素晴らしいことです。どのように生きるべきかということに真剣になるからです。余命いくば くかを宣告されていな いにしても、「死」は突然やってくるかも知れません。誰もが今日が人生最後の日であるかのように、生きられたなら晴らしいことです。 本来私たち はそうあるべきなのだと思うのです。

「兄 弟たちよ….わたしは日々死んでいるのである」(第一コリント 15:31)

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