ひとしずく362-生ける神の子キリスト
私 たちは聖書、特に福音書を読んでイエス様がどんな方であったかを知ります。そして深く読む事によって、その福音書の世界の中に入って 行き、いろいろな人物 に自分を置き換えて考えてみるのです。もし自分がその場面にいたら、どんなことをするだろう?例えば自分が目が見えず、道端で物乞い している所 へイエス様が通りかかったら・・・。私もこの盲人の男性のように、人目も憚らずイエス様に「私を憐れんで下さい!」と、叫び求めるだ ろうか?などと。
そしてこんなふうに自問してみます。私はイエス様を聖書の中の人物としてだけでなく、毎日の生活に違いをもたらして下さる神の御子と して、助けを十分に呼び求めているだろうか?と。
律 法学者やパリサイ人という当時の宗教家達は、聖書の知識はたくさん持っていたものの、それらを自分の人生や魂の生きた糧とはしていま せんでした。彼らは救 い主であるイエス様がせっかくこの世に来て下さったのに、それを認めることもなく、永遠の命を逃してしまいました。そしてかえってイ エス様を、 神を冒涜する者と見なしたのです。
イエス様はそうした 宗教家たちに対してこう言いました。「あなたがたは、聖書の中に永遠の命があると思って調べているが、この聖書は、わたしについてあ かしをするものである」(ヨハネ 5:39)
私 たちも聖書に書かれた神様の尊い約束を、聖書の中でのことと見なして、その祝福を逃さないようにしたいものです。イエス様は生きてい て、聖書に記されてい るのと同じように、今も私達の間を歩まれ、私達の叫び求める声に立ち止まり、「何をしてほしいのか?」と尋ね、私達の嘆願に「そうし てあげよう 」と答えて下さり、触れていやして下さるのです。
「イ エス・キリストは、きのうも、きょうも、いつまでも変ることがない」(ヘブル 13:8) のです。
聖 書の約束は全て真実です。その信仰を持って、今も優しく手を差し伸べて下さるイエス様を熱心に呼び求めましょう。聖書に記された、目 の見えない人たち、皮 膚病を患っていた人たち、不浄な者と見なされていた娼婦たちと同じように、イエス様は私たちに触れ、いやし清めて下さるでしょう。そ して私たち はこう言うのです。「あなたこそ、生ける神の子キリストです」と。(マタイ16:16)
「わたしたちは、あわれみを受け、また、恵みにあずかって時機を得た助けを 受けるために、はばかることなく恵みの御座に近づこうではないか」(ヘブル4:16)