ひ としずく357-ナイトビジョン(暗視鏡)
暗闇でも、はっきりものを見ることができるメガネなど、昔 はSF物 語でしかあり得ませんでした。でも今は、ナイトビジョン(暗視鏡)と呼ばれるメガネがあって、それを通して見ると、真っ暗闇の中でも はっきりと暗視でき、 昼間同様に行動できるのだそうです。ナイトビジョンは、今では夜間警備や停電時作業、またトンネル作業やキャンプ、夜間の動物生態観 察な ど、幅広く使われているようですが、元々は軍用のために開発されてきたもので、軍では大分前から使われていたということです。
私は、これは信仰の賜物に似ているなと思いました。
普通、人間の目から見たら真っ暗闇な状況でも、あるメガネをかけたら、そこ に愛情深い笑みを湛えた神様が立っていて、歩むべき道を指している手が見えたらどうでしょうか?
信 仰のメガネです。信仰のメガネをかけていたら、肉の目で見えるものを超えて神様の愛の計画が見えるのです。
ヘブル11章には、 暗闇の中で、あたかも神の導きの手を見えているかのように、行動した信仰の人たちのことが列挙されています。彼らはあたかもナイトビ ジョンのメガネをかけていたかのようです。たとえばモーセです。
信 仰によって、モーセは成人したとき、パロの娘の子と言われることを拒み、罪のはかない歓楽にふけるよりは、むしろ神の民と共に虐待さ れることを選び、キリ ストのゆえに受けるそしりを、エジプトの宝にまさる富と考えた。それは、彼が報いを望み見ていたからである。信仰によって、彼は王の 憤りをも 恐れず、エジプトを立ち去った。彼は、見えないかたを見ているようにして、忍びとおした。(ヘブル11:24-27)
普 通に考えたら、エジプトの王になることができたのに、それを捨てるということは愚かなことです。しかしモーセには、儚い栄華を捨て て、主と主の民のために 犠牲を払うことがいかに報いのあることか、まるでそれが見えているようでした。聖書には「見えない方を、見ているかのように」とあり ます。彼は 信仰のメガネを通してそれが見えていたのだと思います。
ところで、このよう な聖書の言葉があります。「わたしたちは、見えるものにではなく、見えないものに目を注ぐ。見えるものは一時的であり、見えないもの は永遠につづくのである。」(第二コリント4:18)
どうやって、見えな いものに目を注ぐことができるでしょう?肉の目ではできません。しかし信仰のメガネを通してならできます。永遠に続く、目に見えない ものが見えるのです。
今、肉の目の前に立 ちはだかるものは一時的です。しかし信仰のメガネを通して見るなら、私達の目の前の試練は「一時の軽い艱難」であって、それは後に 「比べものにならないほど重みのある永遠の栄光をもたらしてくれる」のがわかるのです。(第二コリント4:17新共同訳)
(祈 り)どうか主よ、闇にあってあなたの導きを知ることができるように、信仰のメガネを与えて下さい。「信仰は聞くことにより、しかも、 キリストの言葉を聞く ことによって始まる」(ローマ10:17新共同訳)とあるように、今日もあなたの御言葉を聞くことによって信仰を強め、成長できるよ う助けて 下さい。
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