愛 と赦しをもって
偉大な思想を掲げる哲学者よりも、あらゆる知識に通じている物知りよりも、自分の正義を主張する活動家よりも、人の過ち を赦し、謙遜に人の嘆きに耳を傾け、助けの手を静かに伸べる人の方が、はるかに人の心に訴える力を持つように思えます。それはきっと神様 の力が働いているからなのでしょう。
自分の考えや知識をひけらかし、また自分の正しさを主張したくなるところが、多かれ少なかれ人にはあると思います。しか し、私たちは皆、不完全で、過ちをよく犯し、ただ神の憐れみによりすがらなければならない存在です。
イエス様はそのために、十字架の上から、「父よ、彼らをおゆるし 下さい。彼らは何をしているかわからないからです」と叫ばなければなりませんでした。
私たちが、皆、自分たちは神ではなく、完璧でもなく、神の憐れみ によって生かされている存在で、私たちも同じように、愛と赦しの心を持つべきだという認識に立つ時、物事はとても明瞭に、そしてシンプル になるのではないでしょうか。
神の愛と赦しは、自分のためだけにあるのではなく、自分が赦せな いと思っても、神様の憐れみは、この人にもあの人のためにも注がれています。
私たちは、この神の愛によって生かされているのです。この私たち を生かしてくださっている愛こそが最も大切なものであり、聖書はこのことを何度も何度も、語っているのだと思います。そしてこの愛を示す ために、イエス様は十字架の苦しみを通過されなければなりませんでした。私たちが、イエス様の言われている愛に生きようとする時、多少の 試練を乗り越えなければならないのは、当然とも思えます。
どうか、神の愛と赦しに心から感謝し、私たちもまた、神の愛と赦 しをもって生きられるよう主が助けてくださいますように。
「愛さない者は、神を知らない。神は愛である。」(第一ヨハネ4:8)
「知識は人を誇らせ、愛は人の徳を高める。」(第一コリント8:1b)
「たといわたしが、人々の言葉や御使たちの言葉を語っても、もし愛がなければ、
わたしは、やかましい鐘や騒がしい鐃鉢と同じである。たといまた、わたしに預言をする力があり、あらゆる奥義とあらゆる知 識とに通じていても、また、山を移すほどの強い信仰があっても、もし愛がなければ、わたしは無に等しい。たといまた、わたしが自分の全財 産を人に施しても、また、自分のからだを焼かれるために渡しても、もし愛がなければ、いっさいは無益である。」(第 一コリント13:1-3)
「主は、私たちのために命を捨ててくださった。それによって私た ちは愛ということを知った。それゆえに私たちもまた兄弟のために命を捨てるべきである」(第一ヨハネ3:16)