幸せの青い鳥 (2014年3月 ひとしずく1491)
夢を見ました。
私は夢の中で、小さな青い鳥を捕らえようと必死でした。その小鳥は、枝か何かがあったら、留まりたいと思っていたようで、私が自分の手を小鳥の方に差し出していると、私の手に留まろうか留まるまいか、迷っているように、私の手のひらをかすめては、またバタバタと羽ばたいて飛んで行くのです。その小鳥は、私の手の平に幾度も触れましたが、私はその小鳥を捕まえることはできませんでした。小鳥は、私の手の上に乗りたそうでしたが、でも、とても警戒しているかのようでした。また私が次は必ず、捕まえるぞ、と意気込んでいるのを感じて、怖がっているかのようでもありました。
その内に私の指は緊張のあまり、硬直してしまっていて、この手では、またチャンスが与えられても、決して小鳥を捕まえることはできないだろうと思えました。そして、私がしたことは目を閉じることでした。これはきっと神様がそうさせたのだと思いますが、私は目を閉じながら、次のように思っていました。
「私は、自分ではこの小鳥を捕まえることはできない。それが神様の御心だったら、そのようになるように。その小鳥を捕まえるのが神様の御心なら、そうなればいい、どちらにしてもただ、神様の御心がなればいい」と。
すると、小鳥が再びバタバタとやってくるのを感じました。その小鳥が私の近くに来るのは一瞬です。私は目を閉じたまま、手を握りました。すると、小鳥の脚をしっかりとつかんだのです。そして私は両手でその小鳥を包みました。小鳥の暖かさが、私の手に伝わってきました。
面白い夢で、とても興味深いものでした。
よく私たちは、こうなってくれれば・・・とか、こうならないなら自分は絶対に幸せになれないと思いがちです。しかし、私たちが何を必要としていて、何があれば幸せになるかは、私たち以上に私たちの魂を創造された神様がご存知です。そして、その全てを神様に任せるなら、神様は私たちに最善のものを下さるのです。
「神は愛である」と聖書に書かれています(第一ヨハネ4:8)。そして、他の聖書の箇所には、「喜ぶ者と共に喜び、泣く者と共に泣く」ようにと語られています(ロー12:15)。
私たちの喜びを御自分の喜びとされ、私たちの悲しみを御自分の悲しみとしてくださる神様は、愛の神であり、私たちの幸せを願っておられることは明白です。
ですから、このお方に一切を任せる時、私たちにはできないことを神様はしてくださり、私たちが本当に幸せになるように導いてくださるのです。
ちょうど、「自分の命を救おうと思う者はそれを失い、わたしのために自分の命を失う者は、それを見いだすであろう。」「人がその友のために自分の命を捨てること、これよりも大きな愛はない。」「よくよくあなたがたに言っておく。一粒の麦が地に落ちて死ななければ、それはただ一粒のままである。しかし、もし死んだなら、豊かに実を結ぶようになる。」といったこれらの聖句にあるように、私たちの幸せは、最終的には自分がしがみついていたものを手放し、あるいは自分さえも手放して、ただ神様の御心がなりますようにと、神様に信頼することだと思います(マタイ16:25)(ヨハネ15:13)(ヨハネ12:24)。
イエス様は父と共に天におられることをあきらめてくださいました。私たちが罪の束縛から解放されて、自由になる必要があったからです。そして、イエス様は御自分に死なれ、御自分の命を差し出されることによって、全世界の人のための罪の赦しをもたらされ、神の子供たちが彼と共に永遠の命に生きるようにされました。
神様のなされる方法は、不思議で、私たちの肉の思いを越えています。もし、つかもう、つかもうとして夢を追いかけていて、疲れ果てて、またついにはもう少しでというところで機会を逃してしまったように思えるなら、神様はあなたの夢よりも、もっと大きな素晴らしい御計画をお持ちなのかもしれません。そして、私たちがその御計画を受け入れた時、神様は私たちの望んでいたものさえも下さるのではないかと思います。
私たちが全てを神に明け渡し委ねた時に、私たちの手の中には、幸せの青い鳥がいるのです。
「まず神の国と神の義とを求めなさい。そうすれば、これらのものは、すべて添えて与えられるであろう。」(マタイ6:33)
「主によって喜びをなせ。主はあなたの心の願いをかなえられる。」(詩篇37:4)