ひとし ずく353-信仰によって見出す
カラスが地面の氷をつつい て、小さく砕いて食べているのを見かけました。「そうか、今の時期は水たまりも凍り、飲み水はないんだ。こうやって、氷を食べて水の 代わりにしているんだ。カラスも生きていくのに一生懸命なんだな・・・」と私は思いました。
聖書では、神様は空の鳥を 養って下さると言われていますが、このカラスのように、それを探して手に入れるということを、神様が代わってして下さるわけではあり ません。しかし答えはすぐそこにあり、それを求めたり探したりすることは、カラスがしなければならない分なのです。
感心なことに生き物たちは 皆、必ずあると信じて餌や水を探し求めることをします。誰も、餌や水など探しても無駄だ、あるわけがないなどと探すのをやめてし まったり、諦め気分で探している生き物はいません。しかし私たち人間はどうでしょう?時々、私たちは頭の中で見つからない、探し求め ても無駄だと 決めてかかっていることがあるのかも知れません。たとえば何か失くしものをして、それを探す時に、私はそれをしてしまいます。妻も私 も忘れっぽく、「あれ はどこに置いたか、あれはどこにしまったか」とよく探し物をするのですが、なかなか探すことができません。そんな時、探し上手な娘 が、それを見つけてくれ るのです。 彼女は探偵のような考え方をして、私たちに今まで何をしていたのか、とかその前はどこにいたのかといろいろ尋ねて、それから探し出し ます。そしてそのほと んどの失くした物を見つけてくれるのです。
探し物が見つけられない人と 見つけられる人との違いは何だろうと考えてみたのですが、私が思うには、推理力も確かにあるでしょうが、一番の違いは、必ずある はず、見つかるはずだと信じて探す人、つまりその信仰をもった人は見出すということです。私や妻のように、慌てふためきながらも、一 向に探し物 が見つけられない人というのは、心のどこかに、多分見つからないだろうという、あきらめの態度を持っているのかも知れません
これは私たちの、祈りなどの霊的な生活にとっても、当てはまる原則だと思いました。
「探しなさい。そうしたら見いだす」と言われた主は、私達が探しているようで、実は本気で探し出そうとしていない心の状態を知っておられて、そう言われた のだと思います。「探す、求める」といった行為は、主が約束された御言葉に対しての信仰を現わすものです。私たちが求める前から必要 を御存じである主が、 私たちに わざわざ探し出すようにと求めておられるのは、その信仰を働かせてほしいと思っておられるからなのではないでしょうか?
神は見ておられ、私達の必要 を全てご存知です。そして私達が「求め、探し、門を叩く」という分を果たす時、「与えられ、見い出し、開けてもらえる」という結果を 得ることができるように、主はして下さることでしょう。
どうか主が、あのカラスのような純粋で単純な信仰を私たちに与えて下さいますように。