新しいスタート

新しいスタート (2011年8月配信 ひとしずく546)

  軽井沢二泊三日の最終日の午前中、子供たちが他の部屋でアクティビティーをしている間に、被災者であるお母さんたちと妻と私の7人 で、テーブルを囲んで ゆっくり話をする機会を作りました。そのお母さんの一人が、こんな胸の内を話してくれました。「私は、懺悔したいことがあります」彼女はクリスチャンでは ありませんが、余程、心に重くのしかかるものがあり、私が宣教師であることを知ってか、聞いてほしかったのでしょう。
 こみ上げる涙をぬぐいながら、何とか話そうと努力している彼女の言葉を、 テーブルを取り囲む他の6人は、じっと耳を傾けて待っていました。そしてついに彼女は話し出しました。地震直後の避難所で起った ことでした。

 3月11日、雪降る夜の冷たい体育館に避難で詰めかけ た人は約200人、そこに毛布は たった38枚しかなかったそうです。彼女はこう語りました。「助け合ったり、素晴らしいことは、テレビや新聞で、たくさん聞いていると思います。実際そう いったこともありました。しかし、報道されていない醜いことも、被災地ではいくつもあったんです。私は、自分の2歳の子供のために、 必死で毛布の奪い合いをしました。そして何とか毛布を手に入れることはできましたが、その夜、何人もの人が『寒い』『寒い』と言っていたのが聞こえてきま した。それからというもの、自分のしたことに、ずっと苦しんでいます」と。そして、もう一人の被災者のお母さんの話によると、ある人は 、車で避難しようとしていた時、背後から押し寄せてくる津波から逃れるために、他の人を犠牲にしてでも車を走らせたそうです。そうしなけ れば自分が助からなかったからです。しかし、こうした自分のした恐ろしいことを後になって悔いた人たちの中には、自殺する人もいるそうで す。私は彼女たちの話を聞いて、被災者の方々の抱えている心の傷が、私たちの想像を遥かに超えたものであることを改めて思い知らされたの でした。

 彼ら全員が一通り話し終えた後、次のような話をさせて頂きました。

「そのためにイエス様は、この地上に来られたのです。人間は、自分のことし か考えず、自分中心で、自分が生き延びるためには、他の人を殺す事さえしてしまう弱さを心の中に持っています。そして人の姿をとってやっ てこられた神様を殺すことさえするのです。 しかし、イエス様は、私たち人間が、元々そういう罪深い性質を持っているのを、知っておられます。人々に愛と救いをもたらすためにやって来られたイエス様 を人々は十字架につけてしまいました。イエス様は、深い憐れみの内に、 ご自分を殺す人間のために、父である神様にこう祈りました。「彼らを赦して下さい。彼らは、自分で何をしているかわからないのです」と。だから、イエス 様はもう赦しておられ ます。イエス様は、あなたがこの地上に一人しかいなくても、そのたった一人のあなたのために、命をかけて救うために来て下さる方です。イエス様は、罪ある 私達を赦すために十字架にかかって下さったのです。」

  懺悔したいと言った彼女は涙ながらに「ありがとうございました。癒しを感謝します。」と言いました。他の4人のお母さんたちも泣いていました。皆、それぞ れに、今まで誰にも言えなかった心の傷を負っているのでしょう。彼女たちは仲の良いお母さんたちのようでしたが、一人一人話をすると、お 互いにここで初めて聞く話もあったようでした。そんな彼女たちの心の内を注ぎ出させているのは主だとわかりました。そして私は、彼女たち の話を聞いて、イエス様と、イエス 様の赦しと愛のメッセージだけが、彼女たちの心の深い傷を癒すのだと思いました。

 死の瀬戸際に立たされて、人の真の姿を見つめて、自分に何が必要なの か気づいて、闇の中で光と愛と赦しを捜し求めていた・・・。そんな人たちに、私たちは出会えたのです。彼女たちは全員、イエス様を心に受け入れました。 全員がそうすることになるとは私自身も驚いています。彼女たちやその子供たちは、ただ、被災地から離れて、楽しいひと時を過ごしたいだけ のように見えました。軽井沢に到着した時から、皆、ワイワイと賑やかにしていて、とても悲しい経験をされた人たちには見えませんでした。 しかし、彼女たちは皆、神様にしかわからない深い心の傷を負っており、神様は彼女たちの魂の叫びを聞かれていたのです。彼女たちの心の畑 は、私たちが思いもよらないほどに、主を受け入れるためによく耕されていたのでした。そして、ついにイエス様の愛に触れ、イエス様を心に 受け入れたのです。

今、主の御計画がはっきりとわかります。秋田でのキャンプの話をきっかけに 始まり、その計画が進んでいた中で、それが中止になり、一時はどうなることかと思いましたが、主は、これを成し遂げさせるため に、一歩一歩、私たちを導いて下さったのです。 彼らが軽井沢から東松島に帰る時には、私たちは手を取り合って、感謝と励 ましの言葉を交わして別れました。彼らは満面の笑顔で手を振って、元気に東松島に 帰って行きました。彼らの乗ったバスを見送りながら、私は思いました。これは別れではなく、始まりなのだと。主を受け入れて新しいスター トを切った彼女た ちがこれから益々、主の愛に触れ、真理に目覚めて行けるように、少しでも助けになれたらと願っています。そしてそのために、引き続きお祈りして頂けたら幸 いです。

「だれでもキリストにあるならば、その人は新しく造られた者である。古いものは過ぎ去った、見よ、すべてが新しくなったのである」(第二 コリント5:17

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