近代文明という箱

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2024年1月10日

近代文明という箱 (2011年6月配信 ひとしずく476)

 高速バスで東京に来て、満員電車に乗りました。昨日、被災地の避難所で知り合った人達との和やかな会話がまだ記憶に残っ ている時に、人で 一杯の電車に、一言の会話もなされない中、皆じっとだまって立っているのを見て、これが進んだ豊かな文明なのかと考えてしまいました。かえって東京の人た ちの方が避難所の人たちより、ずっと不幸せで悲しい顔をしているように見えました。こんなにも大勢の人々が、狭い箱の中に詰め込まれ、言 葉を一言でも発す るのがタブーでもあるかのような雰囲気の中で、無表情で自分の世界にこもって立っているのです。私もその内の一人でしたが・・・。

 被災地では体育館の中で、何十人もの人たちが不便さを感じつつ寝起きを共にし、高さ1メートルもない仕切りが各家族との 壁を作っているだけの、プライベートも自由もない状態でしたが、その家族単位という隔てを越えて声をかけ合い、たわいのない話をして微笑み、何とも言えな い和んだ雰囲気で した。彼らは家という大きな囲いを失いましたが、痛みを共有し、喜びを共有して、自分一人では、あるいは自分たち家族だけでは担いきれな い悲しみを、他の 人たちや他の家族たちと共有するという、人間にとってとても大切な祝福を神様から頂いているように思えました。

 はしゃいでいる子供たちを見ながら、ある被災者の方はこう言いました。「子供たちにとっちゃ、津波で家が流されても、何 も気になんねぇ。 避難所で楽しくしてるんだ。」そこにいる人たちは皆、子供たちに声をかけたり、ちょっかいを出します。子供たちは、退屈になっている暇が ないようで、とても明るく楽しそうにしていました。大人にとっても、無邪気に笑い楽しむ子供たちは、慰めと希望になっているように思えました。
 皆、以前よりはるかに互いに近くなって助け合っているこの漁村の村人たちを、神様は、喜び微笑んで見ておられるのではな いかという気がします。しかし、そこにいた人たちは明日は仮設住宅に移る人もいて、親しい人とも別れることになるようです。

 今、一生懸命「復興」の名のもと、仮設住宅が建てられていて、文明化社会の提供する「復興」は、迷いも無く仮設住宅の建 築、その後はそこ を出て、住居の賃貸、あるいは建築という手順でしょう。しかし、仮設住宅に入ったり、また都内の立派なホテル住まいを提供された被災者の 人たちの中には、 部屋にとじこもりっきりの人が増えてきているということです。また以前、母親を失った高校生の女の子が、お父さんと避難所から一戸建ての 家に移って、テレ ビ局のインタビューでこう言っていたのを思い出します。「避難所では小さな子供たちの面倒を毎日見ていて、寂しく感じることはなかったけ れど、ここに引っ 越してきてからは、亡くなったお母さんのことを度々思い出して、とても寂しくなった 。」と。

 そ してこんな記事も新聞にありました。高校生か大学生くらいの若者だったと思いますが、彼は人と付き合うのが全く苦手で、いつも家にこもっ てテレビゲームば かりしていたそうです。自分でもそれはよくないと思い、それを克服したいと思っていたのですが、なかなかできずにいたそうです。そして震 災に見舞われ、家 を失い、避難所生活を強いられました。しかしその思いもよらない生活が、彼の願いを叶えることになったのです。避難所ではみんなが声をか けてくれ、いやで も人と接したり助け合ったりしなくてはなりません。そしてそういった生活をしているうちに、段々人が苦手でなくなり、皆の輪に入れるよう になっていったの です。神様がこういう形で自分を助けてくれたように思 ったと彼は語っていました。(彼はクリスチャンではないようでした。)。

こ れらのことを考えると、私たちが当たり前のように思っている幸せと、本当の幸せとは、全く異なるものなのかも知れないと思えてきます。被 災された方々を救 うのは、文明の恩恵に預からせることによってと思っているところがあるのかも知れません。確かに住居は必要で、その他の文明の恩恵も受け なければ生きられ ないような社会に私達はいるのでしょう。ただそれこそが大切というものでもないような気がします。時にはその文明の恩恵は、神様や人とを 隔てる孤独の箱に 人々を閉じ込めてしまう結果になることもあるからです。

神様は、この被災地の近代文明が破壊されたような不便で囲いのない環境の中に人を置くことで、本来の人間の 幸せやあるべき姿を、私達に教えようとされているような気がします。つまり心の復興をなさりたいのだと思うのです。

 人はお互い触れ合って、会話があって、助け合うことがあって、そして神の存在を知って、初めて人間らしくなれると思うの です。そしてそれ は、家族内だけではなく、家族を越えてなされて初めて、神様が意図された状態になるのかもしれないと、避難所の人たちを見て思いました。 この復興を機会 に、失ってしまった尊いものを再び手に入れることができたら、今通過している痛みも悲しみも無駄にならないと思います。いえ、決して無駄 にしてはならない と思います。

近代文明という箱に詰め込まれた私たちが、そこから抜け出て、神様が与えたいと思っておられる本当の自由と 幸せを見出し、心の復興がなされるように祈りたいと思います。

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