電波の届かない所にて

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2023年7月31日

七月三一日 電波の届かない所にて (二〇一六年 ひとしずく二二一五)

 昨日から今日にかけて、電波から、いくから解放された場所に行っていました。携帯とメールの使えないところです。
 現代の人たちは、こうした電波のない生活というのはほとんど出来ないくらいに、電波依存症になってしまっているかもしれせん。私もそのうちの一人ですが、携帯やコンピューターを繋いでいる電波によらず、主の御霊がもたらす絆と導きのみに依存して生きることができることを理想に思っています。

 それを昨夜は少しばかり体験できました。

 つい先日、母親のように自分を世話してくれた姉を天国に見送った母ですが、おそらく老人性の皮膚の問題で、乾燥した皮膚がたくさんはげ落ちてくるということで、私に温泉に連れて行ってほしいと言ってきました。以前、同じような症状の時に温泉に入ったら治ったそうで、もうすぐ心臓の定期診断で病院に行くので、自分のそうした皮膚の状態を見せるのは恥ずかしいと思って治しておきたかったのでしょう。

 インターネットで、調べたところ、皮膚には、温いアルカリ性の温泉が良いということで、十和田湖から少し北の方に行ったところに、良い温泉を見つけました。

 本当は母は、いつも行っている近くの温泉のことを言っていたのですが、そこの温泉の温度は高く、皮膚にも心臓にも悪いだろうということで、母を説得して、少し遠いけれども、秘湯と言われている温泉に一泊で行くことにしました。また、親しかった姉を亡くしたばかりの母にとって、気分転換にもなるだろうとも思ったのです。

 その秘湯へ向かう八甲田山近辺の道路は、今年の春は暖かいので雪がなくて良かったのですが、途中で、通行止めの道路を引き返したりして、やっと宿に到着しました。そしてそこに着いてから気づいたのが、携帯電話が使えないということでした。

 それで家への連絡は、その宿の公衆電話からかけることにしました。またメールやインターネットも使えませんでした。そこで、ずっと癌を患っている友人に、手紙を書こうと思っていたのができずにいたのですが、この機会に、部屋の座卓で手紙を書くことにしました。

 その後、温泉につかりながら、その癌の人のことを色々考えていました。時間をかけて、一通の手紙を書き上げましたが、ちょっと前までは、これが普通のペースだったことを思いました。インターネットも携帯電話もない時代にも、物事はうまく行っていましたし、人間関係も問題はありませんでした。かえって一つ一つの通信に、お互いに対するもっと深い思いやりがこもっていたのではないかと思います。

 今は、より大量の情報を、そしてより多くの人と交信、という時代のようですが、それによってできている人間関係は、希薄なものである場合が少なくないのではないでしょうか。たくさんしゃべっているのに、相手にただ合せて話している。だからいつまでも本音で正直なコミュニケーションができない、というように。

 あるドキュメンタリーでは、古代文明において、遠く離れた者たち同士で、不思議なネットワーク通信がなされていたことを示すかもしれない、古代の遺跡についてやっていました。

 悪魔とその手下どもが「空中の権を持つ君」と聖書には記されていますが、これは、もちろん霊のことを言っているのだと思いますが、現代のインターネットやメールの電波の複雑なシステムに影響を与えてさえいるのかもしれないと思いました。そしてそれは、昔も今も同じく、地球を取り巻く空間とその通信網というのは、悪魔によってかなり影響されているのではないかと、思いました。

 ところで、夕食にその温泉の食堂に行くと、もう他の人たちは食べ終わって部屋に帰っていたので、つけっぱなしのテレビを私は消そうと思いました。
 たわいもない番組でしたし、静かな山の中で、そんなテレビ番組を見る必要はないと思ったのです。

 しかし、料理を運んできてくれた人が、「え、あー、NHKを見たいんですね。じゃ、これを使って下さい」とテレビのリモコンを持ってきました。

 私は、「いえ、他のだれも見ていないのでしたら、テレビ、消していいですか?」と言うと、その従業員は、きょとんとして、再度、「他の番組を見たいんですね?えーと、NHKは…あれ、これがNHKですよ」と言いました。
 私も再び、「いえ、いいんです。テレビを消しても構いませんか?」と言うと、「えっ?あ、いいですけど・・・」とまだ腑に落ちない様子でした。

 そして、テレビを消して、母と私は、静かになった食堂で、会話を楽しむことができたのです。

 最近、インターネットやゲーム中毒の人から携帯を取り上げて、牢の中で幾日間閉じこめて、一人になる時間を与える、ということをテレビでやっていたという話を聞きました。これは、自分では制御できないアルコール中毒やニコチン、麻薬中毒者に対する処方に似ていると思いました。

 たくさんの情報に囲まれ、絶えず誰かと通信していないと、気がすまない状態にある人たちは、もしかしたら、他の中毒や耽溺、依存症と同じようなものなのかもしれません。しかし、それは、他の依存症に比べれば、大して害のあることではないと思いがちですが、本当にそうなのか、少し立ち止まって、自分の生活を吟味してみるのも良いかもしれないと思いました。

 悪魔は、神様の模倣者であると言われています。神の聖霊は、絶えず私たちに影響を与え、囁き、語りかけ、真理を伝えて下さっています。そして神と御子に栄光を与えるのです。しかし、悪魔は、私たちの思いをただあらゆる雑事で満たし、この世の煩いをもたらし、そのようなことで、私たちの思いを忙しさでいっぱいにしてしまうのです。ある時は恐れや心配をもたらします。悪魔は、私たちが神様のことを考えたり、感謝したり、神様に栄光を与えるようにする事を邪魔し、悪魔自身がもっと支配権を持とうとして懸命になっているのだと思います。そしてそのためには、通信システム、マスコミを用いるのはもっとも効果的であるのは言うまでもありません。

 どうか私たちの思いが神の御霊の波長にしっかりと合うために、静けさの中で、何よりも自分の魂を静めることができますように。

主はほむべきかな。主はわれらをえじきとして彼らの歯にわたされなかった。 われらは野鳥を捕えるわなをのがれる鳥のようにのがれた。わなは破れてわれらはのがれた。 われらの助けは天地を造られた主のみ名にある。 (詩篇 一二四篇六~八節)

 静まって、わたしこそ神であることを知れ。わたしはもろもろの国民のうちにあがめられ、全地にあがめられる(詩篇四六章十節)

 さてあなたがたは、先には自分の罪過と罪とによって死んでいた者であって、かつてはそれらの中で、この世のならわしに従い、空中の権をもつ君、 すなわち、不従順の子らの中に今も働いている霊に従って、歩いていたのである。 また、わたしたちもみな、かつては彼らの中にいて、肉の欲に従って日を過ごし、肉とその思いとの欲するままを行い、ほかの人々と同じく、生れながらの怒りの子であった。 

しかるに、あわれみに富む神は、わたしたちを愛して下さったその大きな愛をもって、罪過によって死んでいたわたしたちを、キリストと共に生かし―あなたがたの救われたのは、恵みによるのである― キリスト・イエスにあって、共によみがえらせ、共に天上で座につかせて下さったのである。それは、キリスト・イエスにあってわたしたちに賜わった慈愛による神の恵みの絶大な富を、きたるべき世々に示すためであった。(エペソ二章一~七節)

<日本が滅びることから救出されるためには、まず人がテレビを見なくなることが最初の一歩であるというようなことを、少し前に、監視社会のわなについて話しておられた方がいました。ちょうどその前あたりからテレビをうちでは、ガレージにしまったので、家では見なくなったのですが、静かな時間、主との時間がもっと持つことができるようになったことは確かです>

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