七月二八日 映画「ノア 約束の舟」を見て (二〇一四年七月 ひとしずく一五九九)
先月から、映画「ノア 約束の舟」が全国で上映されています。「聖書の ノアの方舟の話を実写化した大作!」などと宣伝されていますが、それは、物語としても、またメッセージとしても、聖書とはかなりかけ離れたものだと思いました。
聖書で言われていたことと、この映画の違うところはいくつもありました。
まず、ノアの家族が実際は八人であるのに対し、この映画ではノアと妻と三人の息子とその息子との妻一人の計 六人です。舟には他に、ある侵入者が潜伏しノアの命を狙ったり、ノアが非常に荒々しく狭量な感じに描かれていて、気が狂ったように、自分の息子セムの子供を殺そうとしたり、堕天使達がノアを助けるために舟を一緒に造るのを助け、その後、神に受け入れられて、天に昇るというふうに堕天使に同情的に描かれていたり、全く聖書と違っています。
ノアの時代に、人々がそんなにも堕落したのは、天使達が「そのおるべき所を捨てさって」 (ユダの手紙六節)「人の娘たち の美しいのを見て、自分の好む者を妻にめとった」(創世記六章二節) 後です。 つまり、天を去った天使達、つまり堕天使達が、地上に住み着いたことにより、悪がはびこるようになったのです。
人が地のおもてにふえ始めて、 娘たちが彼らに生れた時、神の子たちは人の娘たちの美しいのを見て、自分の好む者を妻にめとった。そこで主は言われた、『わたしの霊はながく人の中にとどまらない。彼は肉にすぎな いのだ。しかし、 彼の年は百二十年であろう』。そのころ、またその後にも、地にネピリムがいた。これは神の子たちが人の娘たちのところにはいって、娘たちに産ませたもので ある。彼らは昔の勇士であり、有名な人々であった。主は人の悪が地にはびこり、すべてその心に思いはかることが、いつも悪い事ばかりであるのを見られた。 主は地の上に人を造ったのを悔いて、心を痛め、『わたしが創造した人を地のおもてからぬぐい去ろう。人も獣も、這う ものも、空の鳥までも。わたしは、これらを造ったことを悔いる』と言われた。しかし、ノアは主の前に恵みを得た。」(創世記六章一~八節)
この神にそむいた天使たちについて、ユダの手紙六節に「主は、自分たちの地位を守ろうとはせず、そのおるべき所を捨て去った御使たちを、大いなる日のさばきのために、永久にしばりつけたまま、暗やみの中に閉じ込めておかれた。」とあります。また第二ペテロ二章四節には「神は、罪を犯した御使たちを許しておかないで、彼らを下界におとしいれ、さばきの時まで暗やみの穴に閉じ込めておかれた」とあります。
もともと天使達は、神と人に仕える ために創造されました。
御使たちはすべて仕える霊であって、救を受け継ぐべき人々に奉仕するため、つかわされたものではないか。(ヘブル一章十四節)
そして創世記にあるように、男性のためのふさわしい助け手として神様が 女性が造られたのですから、男性から女性を取り去った天使達の行動は、神様の意図に反していたわけです。
主なる神は言われた、「人がひとりでいるのは良くない。彼のために、ふさわしい助け手を造ろう」・・・主なる神は人から取ったあばら 骨でひとりの女を造り、人のところへ連れてこられた。(創世記二章十八、二十二節)
この堕天使達の反抗は、人間の世界にあらゆる混乱を招き、また世界が非常に邪悪になる原因ともなりました。悪魔がアダムとイヴをそそのかし、罪に陥らせたのと同じことをノアの時代の人々に対してしたであろうことは簡単に想像できます。しかし、この映画では、人間の罪ばかりが描かれ、堕天使達は英雄として描かれているのです。これは完全な間違いであり、嘘であることは言うまでもありません。
天使達(口語訳では神の子たちとなっています)が、地上の娘に生ませた者たちは、ネピリム(巨人)でした。そして彼らは「勇士」であり、 「有名な人」であったと聖書にありますが(創世記六章四節)、これは邪悪な人々の間で有名であり、勇士と認められていたということであり、 彼らは邪悪な人達を導く者であり、悪の頭領達であったと解することができると思います。
現代にあっても、この堕天使達は、 かなりの力と影響力を持っているようです。なぜなら、人を霊感させてこのような映画を作らせたのですから。自分たちに対して憐れみを持たせ、それほども悪くなかったのに、神は厳しい罰を自分たちに下したとアッピールし、人々をそそのかして益々神から離れさせ、悪へと陥らせてしまいました。
この映画は、神と信仰深いノアを悪とし、悪魔と堕天使達を弁護し美化している、まさしく倒錯したものです。残念なことに、聖書をよく知らない人は、この映画を見たら、ノアとその箱船について、また堕落した天使達について、映画で描かれているものを信じる か もしれません。きっと悪魔は、ノアの時代と同じような、悪のはびこるこの時代に、どうにかして自分たちに都合の良い見解を人々に吹き込んでおきたかったのでしょう。
イエス様が、ご自身が再臨される時について「人の子の現れるのも、ちょうどノアの時のようであろう」(マタイ二四章三七節)と語られていますが、相変わらず狡猾で欺く悪魔は、ノアの時代の真実を歪めているわけです。これは、ノアの時代についての正しい理解が、悪魔とその使いである堕天使達にとって、不味いことになるからなのでしょう。
つまり、洪水前と類似してくる現代にあって、神への信仰をもって生きることが、鍵となってくるので、ノアの信心深い生き方を気違いのように描写して、信仰を持つことについて人々を敬遠させようとしている悪霊どもの目論みを感じます。
ところで、最後に一つ補足したいことがあります。それは、不従順で堕落した天使達とは反対に、神に忠実に従い仕える天使達の存在です。そして、それらの神に忠誠を尽くす天使達の方が、堕天使達よりも、大勢いるということです。彼らは、堕天使達と堕天使達がそそのかし悪影響を与えた人間たちの妨害から、当時、ノアとその家族を守り、 箱船を造り上げるのを助けたことでしょうし、今でも、神様に信頼して従おうとする者を常に守り、助けてくれているのです。
主の使(天使達)は主を恐れる者のまわりに陣をしいて彼らを助けられる。(詩篇三四篇七節)
悪魔は人々に嘘を吹き込み、惑わすために、この映画制作に影響を与えたと思いますが、主や天使たちが、そのような惑わしから人々を守り、かえってそれさえも使って、人々を聖書のメッセージと、そして救い主であるイエス様へと導いてくださるよう、全てを益と してくださる主に、祈りたいと思います。
まず次の ことを知るべきである。終り の時にあざける者たちが、あざけりながら出てきて、自分の欲情のままに生活し、『主の来臨の約束はどうなったのか。先祖たちが眠りについてから、すべてのものは天地創造の初めからそのままであって、変ってはいない』と言うであろう…
ある人々がおそいと思っているように、主は約束の実行をおそくしておられるのではない。た だ、ひとりも滅びる ことがなく、すべての者が悔改めに至ることを望み、あなたがたに対してながく忍耐しておられるのである。(第二ペテロ三章三、四、九節)
信仰がなくては、神に喜ばれることはできない。なぜなら、神に来る者は、神のいますことと、ご自身を求める者に報いて下さることとを、必ず信じるはずだからである。信仰に よって、ノアはまだ見ていない事がらについて御告げを受け、恐れかしこみつつ、その家族を救うために箱舟を造り、その信仰によって世の罪をさばき、そして、信仰による義を受け継ぐ者となった。(ヘブル十一章六、七節)