七月二七日 悪に悩まされていた義人ロト (二〇一四年七月 ひとしずく一六一五)
(創世記13章全部, 18章16節〜19章38節 参照)
神様は、その邪悪さゆえにソドムとゴモラの地を滅ぼされようとしましたが、アブラハムのとりなしのゆえにロトとその娘達は救い出されました。
低地に広がるソドムの豊かさに目を奪われ、その地に住むことを選んだロトではありましたが、その地は邪悪に満ちていました。しかし、そのことが分かっても、ロト達はそこを立ち去ろうとはしませんでした。その場所に対する執着が強かったからです。
このロトについて次のように語られています。
(神は)ソドムとゴモラの町々を灰に帰せしめて破滅に処し、不信仰に走ろうとする人々の見せしめとし、ただ非道の者どもの放縦な行いによってなやまされていた義人ロトだけを救い出された。(この義人は、彼らの間に住み、彼らの不法の行いを日々見聞きして、その正しい心を痛めていたのである。)(第二ペテロ二章四~八節)
ロトはきっと、こう思っていたのではないでしょうか。神様はもしかしたら、自分の国や社会における忌まわしい悪に対して怒っていて、裁きに値すると思われているかもしれない。そして、その国や社会に属し、悪に対して何もできない自分も同罪かもしれないと。しかし、今の状況を考えると、どうしようもできない。今更、アブラハムのように山に逃れることもできない。自分はこの地の役職についており、娘たちも、この地で婿まで持っている…などと、どうしようもないことの言い訳は次から次へと心から湧き出ていたことでしょう。そして、ロトは、罪と自責の念との狭間でどうしょうもなくなっていたのではないでしょうか。しかし、そんなロトでしたが、アブラハムの祈りのゆえに、救われるチャンスを与えられるのです。神の憐れみ深さを感じます。
私たちは、こうして世の悪が増している社会の中で、ロトと同じような立場にあるのではないかと思うのです。主は邪悪さの洪水に直面しようとしている私たちに、幾度もイエスのもとに立ち返るように呼びかけてくださり、またとりなしていてくださっているのだと思います。イエス様は、私たちが自分はもうどうしようもないと思っていても、あきらめられないのです。ロトと同じように、私たちを罪人として裁きの目で見るのではなく、悪に悩まされる義人として見てくださり、とりなしてくださるのです。何という深い愛でしょう。
このように、不法がはびこり、困難な場に置かれている兄弟たちのために、アブラハムがロトのために採りなしたように、また主が永遠にとりなしてくださっているように、主の憐れみを求めて祈る者となろうではありませんか。