虜(とりこ)にした者の繁栄のために祈る

七月二三日 虜(とりこ)にした者の繁栄のために祈る(エレミヤ二九 章)(二〇一四年七月 ひとしずく一五九二)

 もし、自分がバビロン帝国によって征服され捕囚されていったイスラエルの民であったら、 どんな態度をとっていたことでしょう。(バビロン捕囚:新バビロニアの王ネブカドネザル二世により、ユダ王国のユダヤ人たちがバビロンを初めとしたバビロニア地方へ捕虜として連行され移住させられた事件を指す。紀元前五九七年から…。ウィキピデイアより)

自分の国民を虐殺し、町を火で焼き払い、あらゆるものを略奪した国の捕虜とならなければいけなかったその辛さは想像に余りあります。彼らが、そんな敵国の民や町を恨みながら生きたとしても、当然のことと思えます。しかし、主は彼らに、預言者エレミヤを通して、次のように語られたのです。

 

万軍の主、イスラエルの神は、すべて捕え移された者、すなわ ち、わたしがエルサレムから、バビロンに捕え移させた者に、こう言う、あなたがたは家を建てて、それに住み、畑を作ってその産物を食べよ。妻をめとって、むすこ娘を産み、また、そのむすこに嫁をめとり、娘をとつがせて、むすこ娘を産むようにせよ。その所であなたがたの数を増し、減ってはならない。わたしがあなたがたを捕え移させたところの町の平安(繁栄:新改訳Ⅲ)を求め、そのために主に祈るがよい。その町が平安であれば、あなたがたも平安を得るからである。(エレミヤ二九章四~七節)

主はこう言われる、バビロンで七十年が満ちるならば、わたしはあなたがたを顧み、わたしの約束を果し、あなたがたをこの所に導き帰る。主は言われる、わたしがあなたがたに対していだいている計画はわたしが知っている。それは災を与えようというのではなく、平安を与えようとするものであり、あなたがたに将来を与え、希望を与えようとするものである。その時、 あなたがたはわたしに呼ばわり、来て、わたしに祈る。わたしはあなたがたの祈を聞く。あなたがたはわたしを尋ね求めて、わたしに会う。もしあなたがたが一心にわたしを尋ね求めるならば、わたしはあなたがたに会うと主は言われる。わたしはあなたがたの繁栄を回復し、あなたがたを万国から、すべてわたしがあなたがたを追いやった所から集め、かつ、わたしがあなたがたを捕われ離れさせたそのもとの所に、あなたがたを導き帰ろうと主は言われる。(エレ ミヤ二九章十~十四節)

 失った故郷、亡くなった愛する家族や友に加えて、奴隷として引かれて行く屈辱、そしてそれを自ら招いた、神に背いた罪による自責の思い・・・。浸ろうと思うな ら、泥沼のように果てしない絶望の深みに陥る状態です。しかし神の言葉は、自らを苦しめる敵国で、家を建て、妻を娶ったり娘を嫁がせたりして、子供を産みなさいと言っているのです。そして、その敵国の繁栄を祈りなさいと。

結局、自分たちを征服したバビロン帝国も、神の御手の中にあり、 イスラエルの民にとってのバビロン捕囚という大悲劇も、主の許しによってなされたことなのです。神は、これらの計画とこの苦しみの全てを通して、人々が新しい心を持ち、新しい生 き方を始めてくれることを望んでおられたのです。

私たちもクリスチャンとして、自分の行きたくない所、しかし、行かねばならない所(たと えば職場など)に強制的に導かれることがあると思います。そこは、神を信じない人々のいる場所、自分とは価値観も違えば、考え方、受け止め方も違う世界であり、ある意味、敵国にいるような居心地の悪さや大きな試練があるかもしれません。しかし主は、私たちにその置かれた所で精一杯仕え、またその置かれた所の繁栄のために祈りなさいと言われるのです。主が私たちをそうした場所に置かれるのは、私たちを清め、新しい人として作り変えるためです。そしてその目的 は、私たちが主が言われた通り、その置かれた場所で仕え、その場所のために祈ることによって果たされるのだと思います 。

その場所は、自分の思いにそぐわない場所に思えても、主の御手の 内にある場所なのです。そこには主の愛する人たちがいて、その人たちは主をまだ知らないのです。

私たちはその置かれた場所で、主の訓練を受け作り変えられ、また 私たちの使命を果たすのです。つまり、私たちが造りかえられるために導かれた場所は、私たちの召しを果たす場所でもあるのです。そう考える時、私たちの思いと心の態度は変わってくるのではないでしょうか。

主は私たちの試練をすべてわかっていてくださいます。自分が召されている場所が、敵国のような、自分が望んでいる場所とは全く程遠いような所であることも。しかし主は、それでも 私たちがその場所で、苦しみの虜(とりこ)にならないで、自由に主の使命を果たすことを望んでおられるのです。

どうか、苦しみの場所そのものに目を留めるのではなく、そこで果たされるべき、自分の主からの使命に目を留めていられるよう、主が助けてくださいますように。

わたしは彼らに御言を与えましたが、世は彼らを憎みました。わ たしが世のものでないように、彼らも世のものではないからです。わたしがお願いするのは、彼らを世から取り去ることではなく、彼らを悪しき者から守って下さることであります。わたしが世のものでないように、彼らも世のものではありません。真理によって彼らを聖別して下さい。あなたの御言は真理であります。あなたがわたしを世につかわされたように、わたしも彼らを世につかわしました。また彼らが真理によって聖別されるように、彼らのためわたし自身を聖別いたします。わたしは彼らのためばかりではなく、彼らの言葉を聞いてわたしを信じている人々のためにも、お願いいたします。父よ、それは、あなたがわたしのうちにおられ、わたしがあなたのうちにいるように、みんなの者が一つとなるためであります。すなわち、彼らをもわたしたちのうちにおらせるためであり、それによって、あなたがわたしをおつかわしになったことを、世が信じるようになるためであります。(ヨハネ十七章十四~二一節)

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