七月十八日 祈りの友 (二〇一二年七月 ひとしずく八九〇)
昨日、バイブルクラスの後に、お互い祈りのリクエストを出し合い、祈りを必要としている人達や状況のために、皆が心を合わせて、必死になって祈りました。
涙を流して、お祈りする兄弟や姉妹に、祈りに加わっている自分自身が強められ、慰められ励ましを頂きました。
時々、自分の困難な状況のために、自分では、もうこれ以上祈れないと思う心境になる時があります。倦み疲れというのもあるのかもしれませんが、困難な状況の打破のために祈るには、力があまり入らない時があるのです。
「お前は、そのような目にあって当然だ」というサタンの囁きに同意してしまう誘惑があるのです。きっとそのような神様の恩恵に与るのを求めるなんて、虫が良すぎると思うのです。「だから、自分はもうしばらく惨めな状況に置かれて当然さ」と祈りに対して期待が持てないのです。
しかし、友の捧げてくれる嘆願の祈りには、力があります。私が自分に対して持っている信仰以上に強い信仰を示してくれる時がありますし、また私が遭遇している周りの状況に対しても解決策を執拗に求めてくれるのです。
その祈りを聞いていると、ああ、主はきっとこの人の祈りに答えてくれるだろうと思うのです。
聖書には、「互いのために祈りなさい」と書かれています。きっとそれは、お互いのために祈り合い、また取りなし合うことにはそれほどもの力があるからなのだと思います。
私たちが、兄弟姉妹として相集う時、忘れるべきでないことは、ただ楽しい交わりだけではなく、お互いのために祈る機会にするということです。
団結した祈りはとても力強いものです。物事がそこから変わるのです。
いやしと保護と供給のため、そして問題解決のために、この素晴らしい主の力を、もっともっと共に祈り合うことによって、天から頂こうではありませんか? 私たちは、お互いを支え励まし合う、祈りの友なのですから。
よく言っておく。あなたがたが地上でつなぐことは、天でも皆つながれ、あなたがたが地上で解くことは、天でもみな解かれるであろう。また、よく言っておく。もしあなたがたのうちのふたりが、どんな願い事についても地上で心を合わせるなら、天にいますわたしの父はそれをかなえて下さるであろう。ふたりまたは三人が、わたしの名によって集まっている所には、わたしもその中にいるのである」。(マタイ十八章十八~二十節)
絶えず祈と願いをし、どんな時でも御霊によって祈り、そのために目をさましてうむことがなく、すべての聖徒のために祈りつづけなさい。(エペ ソ六章十八節)
わたしはあなたの祈を聞いた。あなたの涙を見た…(イザヤ三八章五節)