七月十六日 愛は事故を防ぐ (二〇一二年七月 ひとしずく八八七)
ガソリンを入れようと思っていたところ、ちょうど、赤信号で止まった脇にガソリンスタンドがあったので、私は車を寄せようと思ってハンドルを切りました。すると、助手席に座っていたTさんが、「ガソリンスタンドに入るんですか?そこにポールがあって、ぶつかりますよ」と教えてくれました。 私の方からは全くの死角であったと同時に、ガソリンスタンドは、普通間口を道路に向けて、どうぞ入ってくださいというように造られているので、その先入観もあり、ポールに気付かなかったのです。 車の向きを変えてから見ると、目の前に80センチ~1メートルくらいのポールが立っていました。私は、Tさんがタイミングを逃さずに教えてくれたことに心から感謝しました。言ってもらわなかったら、ぶつけてしまっていました。
後でTさんが、「出しゃばっちゃいけない、といつも自分に言い聞かせる癖があるんだけど、言って良かった」と話してくれました。 Tさんのその言葉に、私はこう思いました。Tさんは、それを自分の欠点のように思っているようだけれど、気づいたことをすぐ伝えるというのは、ある面ではそれも賜物ではないかと。
「気づいたことを伝える」というのは、とても大切なことだと思います。一人一人が違った性格を持っていて、他の人が気づかないことに自分が気づいたり、自分が気づかないことに他の人が気づくということもあります。もし、人がみんな同じように感じ、同じことしか見ていないなら、私たちは、全体が大変な状態になっているのに、気づかないということに、なり得るのではないかと思います。
何かに気づいたら、もしかしたら、それは他の人に分け合うために主が教えてくれたものかもしれません。時には、それは相手がすでに気づいていることであるかもしれませんが、もし気づいておらず、それが大変なことになり得ることであるなら、やはり、自分が悪く思われるのも厭わず、言ってあげるのが愛だろうと思います。
今、私の住んでいる所は、冬は雪の多い所で、冬の間、不在にしているお宅がありました。隣家の人が、その不在の家の屋根に雪が積もって、これでは家がつぶれてしまい危険だと思い、隣家の持ち主に連絡をして、その旨を教えてあげたそうです。すると、隣家の人は、「心配しないでいいです」と答 えたそうです。その反応に、教えてあげた人は気を悪くしてしまい、もう何があっても知らないぞという態度をとっていたそうです。そして、 その家の屋根はどうなったかというと、雪でつぶれてしまったのでした。
「愛は事故を防ぐ」という言葉を聞いたことがあります。
相手のことを思って気づいたことを告げる。相手がもうわかっていたなら、それはそれでよし、言う必要がなかった、自分は バカを見てしまった、と思う必要はないのです。あるいは相手が気を害したとしても、やはり、その行為が相手に対する親切からであるなら、 後悔することはないと思います。主はそれを知っておられるのですから。
主は、全ての導きと指示を直接語られることはなさらず、ほとんどの場合、人の口を通して語られるのではないでしょうか? そして、主はそれを愛の内に、知らせようとしておられるのに、人の言ってくれたことに対して、プライドが傷つき気を害してしまうなら、どれだけ貴重な助言を無にしてしまうことでしょう?そして、自分を困った立場に置いてしまうのです。またそれは、愛情深い主の助けを拒むことにもなります。
主の代弁者として使って頂ける時があって感謝。また気づかせて頂いて感謝。注意が相手に 必要ではなかったとわかって感謝。自分でわかっていることでも、言ってもらったことで感謝。
誰もが両方の立場に置かれるのです。どちらの立場に置かれた時も、愛と謙遜さをもっていられますように。
各自が御霊の現れを賜わっているのは、全体の益になるためである。」(第一コリント十二 章七節)
いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。すべての事について、感謝しなさい。これが、キリスト・イエスにあって、神があなたがたに求めておられることである。(第一テサロニケ五章十六~十八節)