犬のラッキー

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2023年7月12日

七月十二日 犬のラッキー (二〇一二年七月 ひとしずく八七七)

わたしの目にはあなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している。(イザヤ書43章4節)

時々、誰でも、自分がどうしょうもなく惨めで、何の価値もないように思えることがあるのではないでしょうか?周りの人は皆、輝いて見えるのに、自分ときたら、いつまで経っても同じような試練や問題を抱え、まるで冴えない人生を送っているように感じたり・・・。しかし、そんな時に、慰めと希望を与えてくれる、こんなお話があります。
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 昔、いなくなった犬を探している看板を見たことがある。犬を発見した人に、多額のお礼が約束されていた。犬の外見はこう説明されていた。

「この犬はオスで、足が3本しかありません。左目が見えなくなっており、右耳もなく、尻尾はちぎれています。偶然の事故でフェンスにひっかかり、去勢された状態になりました。耳もほとんど聞こえませんが、『ラッキー』と呼べば答えます。」

 この犬はけしてラッキー(幸運)とは言えない。しかしこの犬は、別の意味ではラッキーである。愛に溢れた飼い主に飼われているからだ。この飼い主は、一見無価値に思えるような犬を愛し、大金を払おうとしているのだから。

(クレイ4月号・月刊デボーションより)

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 私たちにも、こんな素敵な愛に溢れた御主人さまがいます。私たちがどれだけ罪に汚れ、落胆し、どうしようもない状態になって迷い出たとしても、いつも名前を呼んで、探し出そうとしてくれる主人、イエス様が。

 イエス様は、一見無価値に見える私たちのために、大金どころか、御自分の命を差し出して、私たちをご自分のところに連れ帰ってくださるのです。

自分を見つめたら、がっかりすることばかりです。誇れるところも、良いところも何一つないように思えます。しかし、覚えておくべき大切なことは、こんな自分を、無条件で、そんなにも愛してくださる主がいてくださるということです。これこそが、私たちの希望であり、誇りであり、幸せなのです!主よ、感謝します!

私は失われたものを尋ね求め、追われたものを連れ戻し、傷ついたものを包み、弱ったものを強くする。(エゼキエル 三四章六節後半)

 ヤコブよ、あなたを創造された主はこう言われる。イスラエルよ、あなたを造られた主はいまこう言われる、「恐れるな、わたしはあなたをあがなった。わたしはあなたの名を呼んだ、あなたはわたしのものだ。あなたが水の中を過ぎるとき、わたしはあなたと共におる。川の中を過ぎるとき、水はあなたの上にあふれることがない。あなたが火の中を行くとき、焼かれることもなく、炎もあなたに燃えつくことがない。わたしはあなたの神、主である、イスラエルの聖者、あなたの救主である。…」

主は言われる、「あなたがたはわが証人、わたしが選んだわがしもべである。それゆえ、あなたがたは知って、わたしを信じ、わたしが主であることを悟ることができる。わたしより前に造られた神はなく、わたしより後にもない。ただわたしのみ主である。わたしのほかに救う者はいない。わたしはさきに告げ、かつ救い、かつ聞かせた。あなたがたのうちには、ほかの神はなかった。あなたがたはわが証人である」と主は言われる。「わたしは神である、今より後もわたしは主である。わが手から救い出しうる者はない。わたしがおこなえば、だれが、これをとどめることができよう」(イザ四三章一~三、十~十三節)

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