七月十一日 「私は忘れてしまったよ」(二〇一二年七月 ひとしずく八三七)
「なぜなら、わたしは彼らの不義にあわれみをかけ、もはや、彼ら の罪を思い出さないからである。」(ヘブル八章十二節)
私たちの罪は、イエス様を心に受け入れ、悔い改めた時、赦されます。しかし、そうであるのに、私たちは本当に神様の赦しを信じているでしょうか?いつまでも過去の罪、あるいは今も犯し続ける罪に後ろめたさを感じ、主に近づけないでいる人もいるのではないでしょうか?
これは、そんな自分の過去の罪に苛まれていたある牧師のお話です。
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フィリピンの教会にいるあるおばあさんは、夢の中で時々イエスさまに会ってお話をするんだ そうです。今日も教会の人たちに「わたしゃ、またイエスさまにお会いしましてなぁ」なんて話しています。
ところで、この教会の牧師は、あまりその手の話を信じられないタイプの人でした。そこで、 ちょっと試してやろうと思い、おばあさんにこう言いました。
「なあ、おばあちゃん。今度イエスさまに会ったら、聞いて欲しいことがあるんだが。それは 私が神学生の頃に犯した罪についてなんだ。それがどんな罪だったか尋ねてもらいたい」
もし、おばあさんが牧師の罪を言い当てられなければ、夢を見たなんて嘘っぱちでしょう。牧 師は公然とおばあさんを「指導」することができます。でも、そんな牧師の思惑など知らぬ風で、おばあさんは快く承諾しました。
次の週、おばあさんが礼拝にやってきました。そして、いつものようににこにこしながらこう 言うのです。
「先生、昨日の夜、イエスさまにお会いしましたワ」
「それで、例の件、尋ねてくれたかね?」
信じちゃいませんでしたが、それでも牧師の心臓はドキドキと高鳴りました。もし、万が一、 言い当てられたら……。おばあさんは、にこにこしながら答えました。
「はいはい、もちろんですとも。イエスさまに『なんでも、うちの牧師が神学生の頃に罪を犯 したらしいんですが、それはいったいどんな罪だったんでしょうか?』とお尋ねしましたら、イエスさま、『そんなこともあったかなぁ。私は 忘れてしまったよ』とおっしゃいましたワ」
すると、牧師は突然ぽろぽろと涙を流し始めました。
「ああ、主よ。私は今の今まで、あなたの赦しを疑って参りました!」
実 はこの牧師、神学生の頃に犯した罪のことが、ずっと心に引っかかって、密かに苦しんでいたのです。しかし、牧師は知りました。神さまの赦しが完全であることを。罪のリストに赤線を引っ張るような赦し方ではなく(それなら、いつでも読み直すことができます)、罪の記録帳そのものを焼却処分に し、完全に忘れて しまうのが、神さまの赦しだということを。
その日から、この牧師のメッセージはすっかり変わりました。社会の矛盾や人々の罪を指摘し て責める代わりに、それらの罪を命がけで赦して下さったイエスさまの愛を強調するメッセージに。(福島中通りコミュニティチャーチの増田 牧師・ショートエッセイから)
主の赦しは完全です。それを信じることのできる人は幸いです。そして、真に自分の罪が赦されたことを知る者には、他の人を赦す力も備わることでしょう。私たちは自分でも赦しがたい罪を、神様から赦され帳消しにしていただいたのですから。他の人のどんな罪について赦せないというのでしょう?
このお話にあるように、私たちは、神様から自分の罪が完全に赦されていることを心から信 じ、自分の罪や他の人の罪にいつまでも目を留める人生から、命がけで罪を贖ってくださったイエス様のその深い愛に目を留める人生に変換しようではありませんか。
「私は忘れてしまったよ」そう言ってくださる主の寛容な愛を、他の人にも示すことができますように。
あなたがたは罪によって、また肉の割礼がなくて死んだ者であったのに、神は、そのようなあなたがたを、キリストとともに生かしてくださいました。それは、私 たちのすべての罪を赦し、いろいろな定めのために私たちに不利な、いや、私たちを責め立てている債務証書を無効にされたからです。神はこの証書を取りのけ、十字架に釘づけにされました。(コロサイ二章十三、十四節)
お互いに親切にし、心の優しい人となり、神がキリストにおいて あなたがたを赦してくださったように、互いに赦し合いなさい。(エペソ四章三二節)