真理のために立ち上がる

七月十日 真理のために立ち上がる (二〇一二年七月 ひとしずく八七一)

 
(愛は)不義を喜ばないで真理を喜ぶ。(第一コリント十三章六節)
 
第二次世界大戦後、ドイツの教会の代表者達が集まった会議の中で、ニーメラーという人が、戦時中の教会の罪について告白したそうです。以下は彼の発言です。 (「ボンへッファー紀行」村上伸著からの引用)
 
「・・・責任をナチスになすり付けて済む問題ではありません。いいえ。本来の罪責は教会にあります。というのは、あのようにして始まった道が破滅に通じることを知っていたのは、ひとり教会だけだったからです。それなのに、教会はわが民族に警告を発しませんでした。不正が行われていてもそれを明らかにせず、もしくは、やっとそれをしたとしても既に手遅れになってしまってからです。そして、この点では、告白教会の罪責は特に重いのです。というのは、告白教会は目の前で何が起こり、何が始まっているかを最も明確に認識していたからです。そればかりか、そのことに関して発言さえした。それなのに、やがて疲れ果て、活ける神 よりも人間を恐れるようになりました。こうして、破局が我々すべての上に訪れたのです。教会は胸を打って告白しなければなりません。私の罪、私の罪、私の最大の罪、と。」
 
 この切実な言葉の背景には、解放後、ニーメラーが毎晩のようにうなされていたという有名な夢の体験がある。66年に来日したときも彼はこの夢について繰り返し語ったから、知る人も多いであろう。その核心部分は以下の通りである。
 
 「夢の中で、私は前方に強い光を放つ白い雲を見た。私は右にも左にも顔をそむけることができない。その雲から一つの声が聞こえてきて、私の左後ろにいる別の人間に語りかける。『あなたには自分の罪に対して何か言い訳があるか』と。その人はこう答える。『はい、あります。誰ひとり、私に本当の福音を伝えてはくれませんでした』。それはアードルフ・ヒトラーの声であった。私は心の中で、次のような声が自分に向ってくるだろうと予期した。『お前は長い間この男と闘い、この男を非難し続けてきたのに、どうして一度も福音を伝えなかったのか』という問いが。しかし、私の夢は、いつ もこの所まで来ると胸苦しい目覚めと共に中断されるのである。戦後、教会再編成のために指導者たちが集まったとき、私はこの夢のことを話した。そして、教会こそがすべての出来事に対して責任があり、先ず悔い改めなければならないのは教会自身であると述べたのであった。」
 
 この夢は、ニーメラーをひどく苦しめたが、それは単なるトラウマではない。 むしろ、彼の実存を最も深いところで揺り動かす神の霊の働きかけ、あるいは、彼自身に向けられた神の厳しい問いであった。ニーメラーはまた次のようなことを語りました
 
「ナチスが共産主義者を逮捕したとき、私は黙っていた。私は共産主義者ではなかったから。彼らが社会民主党員を投獄したとき、私は黙っていた。私は社会民主党員ではなかったから。彼らが労働組合員を逮捕したとき、私は黙っていた。私は労働組合員ではなかったから。彼らがユダヤ人を逮捕したとき、私は黙っていた。私はユダヤ人ではなかったから。彼らが私を逮捕したとき、それに抗議できる人はもう一人も残ってはいなかった。」
 
 また次の声明文の原案もニーメラーが書いたものと言われています。
「・・・我々は自らを告発する。我々はもっと大胆に告白せず、もっと真実に祈らず、もっと喜ばしく信ぜず、そしてもっと熱く愛することをしなかった。今や、我々の教会の中に新しい出発がなされなければならない。」(「シュトゥットガルト罪責宣言」)
 
 エゼキエルという預言者に神様は、語るべき言葉を授け、それを語るように求められました。人は必ずしも神様の言わんとしていることに耳を傾けたいものではありません。いえ、むしろ、神様のことも、また神様のメッセージも無視して、自分の好きなことをしていたいというのが、人間の本性かもしれません。
 
 しかし、相手が聞きたがらないから、あるいは言っても恐らく無理だろうからと、言うべきことを何も話さずにおくということは、本当の意味で、相手のことを真実に愛することではありません。
 
 神様は、私たちが神様の真実の愛を学ぶようにと、そのような人たちの前に私たちを連れて行かれます。その時に、思いと口を固く閉ざすことがないよう、主が信仰と勇気を与えてくださいますように。主の救いを受け入れるか否かは、その本人の選択です。しかし、それに関係なく、主の愛と福音は、全ての人々に注がれ伝えられるべきものであり、私たちはそれを伝える任務に与っているのです。どうか、このことをしっかりと覚え、真理に立ち上がる者となれますように。
 
 「人の子よ、わたしはあなたをイスラエルの家のために見守る者とした。あなたはわたしの口から言葉を聞くたびに、わたしに代って彼らを戒めなさい。わたしが悪人に『あなたは必ず死ぬ』と言うとき、あなたは彼の命を救うために彼を戒めず、また悪人を戒めて、その悪い道から離れるように語らないなら、その悪人は自分の悪のために死ぬ。しかしその血をわたしはあなたの手から求める。
しかし、もしあなたが悪人を戒めても、彼がその悪をも、またその悪い道をも離れないなら、彼はその悪のために死ぬ。しかしあなたは自分の命を救う。また義人がその義にそむき、不義を行うなら、わたしは彼の前に、つまずきを置き、彼は死ぬ。あなたが彼を戒めなかったゆえ、彼はその罪のために死に、その行った義は覚えられない。しかしその血をわたしはあなたの手から求める。けれども、もしあなたが義人を戒めて、罪を犯さないように語り、そして彼が罪を犯さないなら、彼は戒めを受けいれたゆえに、その命を保ち、あなたは自分の命を救う」。(エゼキエル三章十七~二一節)
 
  「弟子はその師以上のものではなく、僕はその主人以上の者ではない。
 弟子がその師のようであり、僕がその主人のようであれば、それで十分である。もし家の主人がベルゼブルと言われるならば、その家の者どもはなおさら、どんなにか悪く言われることであろう。だから彼らを恐れるな。おおわれたもので、現れてこないものはなく、隠れているもので、知られてこないものはない。わたしが暗やみであなたがたに話すことを、明るみで言え。耳にささやかれたことを、屋根の上で言いひろめよ。
 また、からだを殺しても、魂を殺すことのできない者どもを恐れるな。むしろ、からだも魂も地獄で滅ぼす力のあるかたを恐 れなさい。二羽のすずめは一アサリオンで売られているではないか。しかもあなたがたの父の許しがなければ、その一羽も地に落ちることはない。またあなたがたの頭の毛までも、みな数えられている。
 それだから、恐れることはない。あなたがたは多くのすずめよりも、まさった者である。
 だから人の前でわたしを受けいれる者を、わたしもまた、天にいますわたしの父の前で受けいれるであろう。」(マタイ十章二四~三二節)
 

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