七月九日 愛の律法に生きた人 パート3 (二〇一二年七月 ひとしずく八六九)
引き続き、上杉鷹山についてです。
(インターネットから)
「貧しい農村では、働けない老人は厄介者として肩身の狭い思いをしていた。そこで鷹山は老人たちに、米沢の小さな川、池、沼の 多い地形を利用した鯉の養殖を勧めた。やがて美しい錦鯉は江戸で飛ぶように売れ始め、老人たちも自ら稼ぎ手として生き甲斐をもつことがで きるようになった。
さらに鷹山は九十歳以上の老人をしばしば城中に招いて、料理と金品を振る舞った。子や孫が付き添って世話をすることで、自然に老人を敬う気風が育っていった。父重定の古希(七十歳)の祝いには、領内の七十歳以上の者七三八名に酒樽を与えた。三十一年後、鷹山自身の古希では、その数が四五六〇人に増えていたという。」
「天明の大飢饉の際・・・藩の領民救済活動は素早く、藩士、領民の区別なく、一日あたり、男、米3合、女2合5勺の割合で支給 し、粥として食べさせる。
鷹山以下、上杉家の全員も、領民と同様、三度の食事は粥とした。それを見習って、富裕な者たちも、貧しい者を競って助けた。全 国300藩で、領民の救援をなしうる備蓄のあったのは、わずかに、紀州、水戸、熊本、米沢の4藩だけであった。近隣の盛岡藩では人口の2 割にあたる7万人、人口の多い仙台藩にいたっては、三十万人の餓死者、病死者が出たとされているが、米沢藩では、このような扶助、互助の 甲斐あって、餓死は一人も出なかった。それだけでなく、鷹山は苦しい中でも、他藩からの難民に藩民同様の保護を命じている。江戸にも、飢 えた民が押し寄せたが、幕府の調べでは、米沢藩出身のものは一人もいなかったという。」
「上杉鷹山の正室は、養父重定の次女、二歳年下の幸姫で、彼女は知的障害があったといわれています。知力は十歳の子どもにも達していなかったと言われてい ます。鷹山はその妻を心から愛し、妻が亡くなるまで、遊び道具や人形を作って遊びの相手をしたのだそうです。幸姫は鷹山にとって、心のいやしであり、支えだったようです。
鷹山は藩主と言えども古くからいる家臣から見たら新参者でした。何かにつけことごとく冷たく当たられる毎日、疲れ果てて家に帰ってフーッとため息をつくと、彼の足元にコロコロとまりが転がってきます。ふと見ると、目の前には幸姫・・・まりを転がしてやると、うれしそうにそれを拾いあげ、また、鷹山に向けて転がしてきます。彼女の笑顔には、打算も計算もありません。あまりの辛さに、まわりが敵ばかりに見えていた鷹山は、味方だと言わんばかりの幸姫の笑顔に救われる思いがしたのです。その日から、鷹山は家に帰ると幸姫と遊ぶのが日課になったそうです。鷹山は幸姫の事を『彼女は、神様が私にくれた天使だ』と語っていたといいます。幸姫は三十歳で亡くなりますが、父重定は娘の遺品を手にして、初めて娘がそんなにも鷹山に大切にされていたことを知り、不憫な娘への鷹山の心遣いに涙したといいます。」
「後継ぎのないのを恐れた家臣たちの薦めで、鷹山は側室を一人迎え、二人の子供に恵まれました。しかし、実子がいるにも拘わらず、35歳の若さで隠居し、藩主の座を養父重定の実子に譲ったといいます。重定が生きているうちに安心させ、喜ばせてあげたいという気づかいがあったからと思われます。そして鷹山の二人の実子は、鷹山や側室よりも早くに亡くなり、側室は一人 だけしかとらなかったので、血筋は途絶えたといわれています。」
上杉鷹山はクリスチャンであったとは伝えられていませんが、正しく愛の律法に生き、愛と平和の世を築きあげた偉人と言えると思います。救いや信仰については また別の話になりますが、私はクリスチャンとして、謙遜に鷹山の生き方に学びたいと思いました。不法がはびこり、ますます人々の愛が冷える昨今、人々に互いに助け合い、親切にし合うことを教え、そして自らそれに生きた上杉鷹山の姿は、私たちに本来の人生の意味と社会のあり 方を教えてくれるのではないかと思います。
私たちも、それぞれ、神に使わされた場所で、愛の律法に生きることができますように。
「愛する者たちよ。わたしたちは互に愛し合おうではないか。愛は、神から出たものなのである。すべて愛する者は、神から生まれた者であって、神を知っている。愛さない者は、神を知らない。神は愛である。」(ヨハネ第一の手紙 4:7、8)
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<ここ数年コロナの恐怖があおられて、ロックダウンの下、助けの手を伸べないのが当たり前となり、デジタル化、ロボット化社会で神様の下さった命の尊さをますます人は見失ってしまいつつあります。鷹山にまつわる話は、主の愛に生きることの意味を考えさせられます。>