七月六日 悪のプロパガンダに要注意!(二〇一二年七月 ひとしずく八六六)
頻繁に報道される民族問題・・・それは非常に複雑なものです。イエス様は、終わりの時のしるしの一つとして、「民(族)は民(族)に、国は国に敵対して立ち上がるであろう」(マタイ二四章七節)と言われました。
民族間の争いの始まりには、大抵プロパガンダがあります。プロ パガンダとは、特定の思想・世論・意識・行動へ誘導する宣伝行為ですが、それは敵国、あるいは敵族に対し、憎悪を抱かせるよう導くのです。
誰かのことを他の人々に悪く吹き込み続ければ、それは真実であろうとなかろうと、広まりますし、言い続けることによって、相手についての憎しみに満ちた見解が思いの中で確固としたものとなり、その憎悪はやがてその相手に敵対する行動にまで走らせてしまいうるのです。
一人の少女の嘘の証言が、湾岸戦争の火ぶたのきっかけにもなったというドキュメンタリーを見たことがあります。もちろんこれもその背後には、その少女を利用し、相手国がどんなにひどく悪い国であるかを広めるためのプロパガンダがあったのです。
私たちは、物事の見方に注意しないと、いつの間にかそれが真実かどうかもわからないのに、相手を裁き、その相手の言動を正しく評価できなくなります。
それぞれの民族は、それぞれユニークなところがあります。それはちょうど、イエス様が、主を信じる人々に、それぞれに異なった賜物を授けておられると言っている話に似ていると思います。それぞれは異なる肢体であって、異なる働きをすると言われたのです。
からだが一つであっても肢体は多くあり、また、からだのすべての肢体が多くあっても、からだは一つであるように、キリストの場合も同様である。
なぜなら、わたしたちは皆、ユダヤ人もギリシヤ人も、奴隷も自由人も、一つの御霊によって、一つのからだとなるようにバプテスマを受け、そして皆一つの御霊を飲んだからである。
実際、からだは一つの肢体だけではなく、多くのものからできている。
もし足が、わたしは手ではないから、からだに属していないと言っても、それで、からだに属さないわけではない。
また、もし耳が、わたしは目ではないから、からだに属していないと言っても、それで、からだに属さないわけではない。
もしからだ全体が目だとすれば、どこで聞くのか。もし、からだ全体が耳だとすれば、どこでかぐのか。
そこで神は御旨のままに、肢体をそれぞれ、からだに備えられたのである。 (第一コリント十二章十二~十八節)
手は足の働きを真似する必要はないし、目は口の働きをしなくていいのです。それぞれが重要で、皆、神様の御計画の下に神の知恵によって存在しています。だから「耳が、わたしは目ではないから、からだに属していないと言」って、体から切り離すことはしません。
このたとえは、異なる者達が「共存」するために、「同一化」しなければならないというわけではない、ということをうまく表しています。
私たちは、この地球上に、異なる特性を備えた色々な民族があるために、その益を互いに被っています。違いがあるからこそ、学ぶべきことがあり、また理解しようと努めたり、相手を愛し、尊敬し感謝する思いが芽生えるのだと思います。世界に一つの民族だけであったとしたら、なんと味気ない退屈な世界になることでしょう? 様々な民族を神様が造られたのなら、そこには、神様の特別な知恵と愛情深い御計画があるのです。神が愛であり、また雀の一羽をも愛情深く見守っておられるのであれば、ましてや存在している民族全てに対して、主は深い思いやりと愛をお持ちに違いないと思うのです。
かつて、私が宣教に赴いたある国の人々に対して、最近盛んに批判的な意見を聞きます。
確かにそういう人もいれば、そういう面もあるのは真実かも知れません。しかし、私個人としては、十把一絡げにして、その国の人々はこうだ、と決めつけたくはないのです。
私はかつて、その国で生活し、そこで様々な親切な人たちに助けられました。そして、イエス様を信じ、命がけで、私から聖書を学んでいた人たちもいたのです。今も、イエス様を愛し、その教えに生きている人はその国にたくさんいると思います。
そしてこれは、この国に限らず、全ての国の全ての民族にも言えることなのだと思います。
もちろん、侵略や犯罪をそのままにしていいと言っているのではありません。神は裁かれます。それぞれの国の悪事に応じて神は報われるのです。しかし、どこの国が罪なしで、神の目に清いと言えるでしょうか?
それぞれが、個人レベルでも国家レベルでも、また民族レベルでも、神に立ち返って、悔い改めて身を正す時です。
間違いを指摘してもらい、悔い改めを助けてもらうことになるのはありがたいことですが、人を造り、国々を造られた神が、まずすべての者、全ての国々に悔い改めを呼び掛けておられることを忘れないようにすべきです。
完璧な民族など、どこにもいません。完璧ではないので、国同士、民族同士で、様々なもめごとや問題が起こるのは当然でしょう。しかし、それがプロパガンダに煽られて、争いや憎しみ合いにまで発展してしまうということに注意しなければなりません。プロパガンダに惑わされないようにするには、 愛と赦しの目が必要だと思います。
聖書にあるように、私たちは皆、王から一万タラントの借金を帳消しにして頂いた者です。それなのに、他の人に対しては、わずかな借金を返さないからと言って牢屋に投げ入れるようなことをするのです。世界中のそれぞれの国のそれぞれの民族が同じようなことをするなら、世界はどうなってしまうでしょうか?
それを見て王はどう思うでしょう?聖書では王はかんかんに怒っておられます。
皆誰でも自分の国を自分の民族をまずは第一に愛していることでしょう。それは当然です。しかし、それぞれの国や民族間には、問題があり、悩みがあります。もし私たちが、民族や国という枠を越えて、そこにいる一人一人の人たちについて、もっと理解を示そうとするなら、お互いに対する愛と尊敬の念が生まれてくる のではないかと思うのです。
コミュ二ケーションし、祈り合い、思いやり合う時、私たち全人類は、同じ痛みと悲しみと愛の願望を持っている同じ人間だ とわかります。しかし、自分の国や民族だけを大切にし、自分たちさえ良ければいいという考え方でいるなら、簡単にプロパガンダに乗せられて、憎しみ合い、争い、殺し合い、 という、とても悲しい神の的を外した行為にたどり着いてしまうのだと思います。
私たちを憎しみや争いに導こうとする、悪のプロパガンダに、注意していましょう。
どうか、世界中の人たちが、その愛を自分の国や民族に対してのみ、留めているのではなく、山を越え、海を渡り、国境を超えて、世界中に行き渡らせることができますように。そして世界中の人々が愛と平和の内に幸せに生きられるようになりますように。
敵意を仰ぐプロパガンダに曝されているなら、以下の聖句から、主の思いを考えてみるべきではないかと思います。
「隣り人を愛し、敵を憎め」と言われていたことは、あなたがたの聞いているところである。
しかし、わたしはあなたがたに言う。敵を愛し、迫害する者のために祈れ。 こうして、天にいますあなたがたの父の子となるためである。天の父は、悪い者の上にも良い者の上にも、太陽をのぼらせ、 正しい者にも正しく ない者にも、雨を降らして下さるからである。
あなたがたが自分を愛する者を愛したからとて、なんの報いがあろうか。そのようなことは取税人でもするではないか。 兄弟だけにあいさつをしたからとて、なんのすぐれた事をしているだろうか。そのようなことは異邦人でもしているではない か。
それだから、あなたがたの天の父が完全であられるように、あなたがたも完全な者となりなさい。(マタイ五章四三~四八節)
そのとき、ペテロがイエスのもとにきて言った、「主よ、兄弟がわたしに対して罪を犯した場合、幾たびゆるさねばなりませんか。七たびまでですか」。
イエスは彼に言われた、「わたしは七たびまでとは言わない。七たびを七十倍するまでにしなさい。
それだから、天国は王が僕たちと決算をするようなものだ。 決算が始まると、一万タラントの負債のある者が、王のところに連れられてきた。
しかし、返せなかったので、主人は、その人自身とその妻子と持ち物全部とを売って返すように命じた。 そこで、この僕はひれ伏して哀願した、『どうぞお待ちください。全部お返しいたしますから』。 僕の主人はあわれに思って、彼をゆるし、その負債を免じてやった。 その僕が出て行くと、百デナリを貸しているひとりの仲間に出会い、彼をつかまえ、首をしめて『借金を返せ』と言った。 そこでこの仲間はひれ伏し、『どうか待ってくれ。返すから』と言って頼んだ。 しかし承知せずに、その人をひっぱって行って、借金を返すまで獄に入れた。 その人の仲間たちは、この様子を見て、非常に心をいため、行ってそのことをのこらず主人に話した。 そこでこの主人は彼を呼びつけて言った、『悪い僕、わたしに願ったからこそ、あの負債を全部ゆるしてやったのだ。 わたしがあわれんでやったように、あの仲間をあわれんでやるべきではなかったか』。
そして主人は立腹して、負債全部を返してしまうまで、彼を獄吏に引きわたした。 あなたがためいめいも、もし心から兄弟をゆるさないならば、わたしの天の父もまたあなたがたに対して、そのようになさるであろう」。 (マタイ十八章二一~三五節)