七月五日 主からの思いがけないプレゼント (二〇一二年七月 ひとしずく八六五)
今、那須に滞在中ですが、ちょっとした用事があり、一昨日、高速バスで東京に来ていました。そして用事を済ませ、帰りの高速バスの時間まで少し時間があったので、高速バス乗り場のすぐ近くにある、大きな本屋さんに立ち寄ったのでした。しかし、後から知ったのですが、同じ本屋さんが、もう一箇所あり、何と高速バス乗り場はそちらの本屋さんの近くだったのです。私はその日の最終便のバスに乗り遅れ、仕方なく電車で那須に帰ることになりました。しかし、高速バスだと、住居のすぐ近くのバス停に着くのですが、電車だと最寄りの駅から、我が家までは十キロもあるのです。駅から路線バスは出ているのですが、夕方には終バスが出てしまい、駅に着いたのは八時を回っていたので、家まではタクシーか徒歩の選択をしなければなりません。
物事を計画的に用意周到に進めていくことができない自分に、「相変わらずだ」と思いがっかりしました。高速バス料金も戻って来ず、余分な出費の後に私を待っていたのは道のり十キロの帰路です。それも家までは、緩やかですが長い上り坂。気分は重く落ち込 みそうなところでしたが、私は何とか、その思いを転換し「そうだ、非常事態の訓練だと思って歩こう」と思い、リュックを背負い、夜道を歩くことにしました。家までは約二時間ほどの道のりでしたが、思いの他、それはとても素晴らしい時間となりました。妻や友人とも電話で話ができたり、主はたくさんの励ましを下さいました。そして、自分の心に重荷になっている幾つものこと、また周りの人達のことを、 歩きながら祈りました。主も私に気づかせたい幾つかの事柄を示し、語って下さいました。
こうした体験の中に、私は主からのたくさんの祝福を感じます。自分の心を主に知っていただき、主も私の心にあること、また自分で気づかなかったことに光を当てて下さり、また周りの人について、別のことを知らせていただいたのです。あるクリスチャンたちは長距離を歩きながら祈るという企画をするそうですが、なるほどこの方法は、一人でもとても霊感されました。暗い道だと、さらに祈りに集中できるのです。
主は闇夜の道を共に歩いてくださいます。すぐそばに主が共にいて下さるとわかれば、闇も気になりません。自分の背負っている荷も、主が下さったもので、主が共に担っていて下さっていると思うと、力が湧いてきます。主の御霊を感じ、またまた新しいことへの気づきの喜びが、肉体の疲れを忘れさせてくれるのです。主のささやきの声が、私のための闇の中の光となってくださり、主が私のそばに、私の中におられるのを感じました。ただ、この一歩を踏むことだ。もう一歩。もう一歩。主が用意して下さった思いもかけないプレゼントに感謝しながら歩くことができました。
そう、確かに、これは私が必要としていたものでした。最近、忙しさにかまけて、主との時間をゆっくり取ることを忘れていたのかも知れません。
主との時間を取らなければ、主が自分に何を求めているのか、また主は何を考えておられるのかということを真剣に求め尋ねることもありません。自分についても、また周りの状況や人々に対する主の導きについても、気づかないままになってしまいます。
主はきっと、主の見方に波長を合せるために、私にこの時間を与えてくださったのだと思いました。万事をすべて益にしてくださる主に感謝です。
あなたがたのうち主を恐れ、そのしもべの声に聞き従い、暗い中を歩いて光を得なくても、なお主の名を頼み、おのれの神にたよる者はだれか。 (イザヤ50章10節)
静まって、わたしこそ神であることを知れ。わたしはもろもろの国民のうちにあがめられ、全地にあがめられる。 (詩篇四六篇十節)