主に尋ねるのは割に合う

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2023年7月2日

七月二日 主に尋ねるのは割に合う (二〇一二年七月 ひとしずく八六二)

  今朝、家族とデボーションの終わりに、祈りの時を持ちました。色々な状況のため、また祈りの必要な人たちのために祈るリストを挙げている時、娘の一人が言いました。
「お隣から借りている絵の本を返さなきゃいけないんだけど、まだ見つかっていないの。見つかるように祈って」と。妻が、彼女が何時間もその本を探していたことを教えてくれました。私も思い当たる場所について、いくつか言いましたが、全部くまなく探したということでした。
 それで、私たちは、どこを探したら良いのか、主に示してもらえるように祈ったのでした。その祈りが終わる時に、主は私に、彼女の姉がその本を使っていたのを思い起こさせてくれました。そのことを話すと、妻が「そうよ。彼女のキャビネットの中を見てみて」と娘に話しました。しばらくすると「お父さん、ありがとう。見つかった!」と、娘が喜びの声をあげていました。
 
やはり「主に尋ねるのは、割に合う」と皆で主を賛美したのでした。
 
 ちょうど、その祈りの前のデボーションでは、私たちはある記事を読み返していたところでした。
 
「三年前から、私たちはここ南アフリカのヨハネスブルクの刑務所で、受刑者たちが出所後に社会生活を送るのを助けるため、聖書の勉強会を開きました。私たちが教える最も重要なことの一つは、預言の賜物を使って自分で主から聞くことで、彼らは実際にそうしています。幾つかその実例を紹介します。
 シフォに最初に出会ったのは一年以上前で、少年刑務所に服役しています。最近シフォの同房者が、長いこと家族が面会に来ないことで沈んでいました。シフォは祈って、その状況について主に尋ねました。すると、主はシフォに、「家族が今度の土曜に来るから、心配しなくてもいい」と彼に告げるように言われたのです。そんなはっきりとしたメッセージを告げるのには、かなりの信仰を要しましたが、確かに主は語られ、その言葉を守られました。土曜にその少年の家族が面会に来たのです。今はその少年も聖書の勉強会に来て、もっと学びたがっています。
 もう一つの話は、フランシスについてです。彼は最近、成人用の刑務所に移されました。少年刑務所にいる年齢を過ぎたからです。移って間もない頃に、ベッドに座って聖書を読んでいると、広い監房の反対側に五人のグループがいるのに気がつきました。主はフランシスに、彼らはフランシスを殺そうと計画しているが、行って彼らに証しすべきだと言われました。フランシスは大柄でもなく、そこのほとんどの囚人よりもずっと年下でしたが、何とか勇気を奮い起こして話しに行きました。「僕を殺そうとしているのは知っているよ。だけど、その前に、イエスが君たちを愛していて、僕も君たちも愛しているということを知ってほしいんだ」と言うと、自分のベッドに戻りました。
 その夜、彼を殺すつもりだった三人のギャングが、イエスについてもっと教えてほしいと頼んできたのです。フランシスが自分たちの計画を見破ったことに驚いた彼らは、その夜、祈ってイエスを心に受け入れました。預言のおかげで、この凶悪な人たちが主に勝ち取られ、その上、フランシスも命拾いをしたのでした。」
 
 主に尋ねるなら、すべてはうまく行きます。そして、不必要な困難にも遭わずに済みます。主に尋ねるのは、本当に割に合うのです。
今日も、まず主に尋ねることから、一日を始めようではありませんか?
 

わたしに呼び求めよ、そうすれば、わたしはあなたに答える。そしてあなたの知らない大きな隠されている事を、あなたに示す。 (エレミヤ 三三章3節)

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