七月一日 渇きの祝福 (二〇一二年七月 ひとしずく八六一)
私は、今年は秋田で、母や子供たちと畑で野菜作りをしています。植物を世話しているといろいろなことを学びます。野菜にもよりますが、ほとんどの野菜は水をたっぷりあげたら、何日間は水をあげない方が良いようです。きっと表面付近の土が渇くと、根は水を求めて、さらに地深く伸びるのでしょう。そして、植物にとってのその乾きという試練が功を奏して、しっかりと土中に根をはり、台風などの嵐にも耐えられるほどに強く成長するのです。
反対に、水をいつもふんだんに与えられるなら、植物は土中深くに根を張るという努力をする必要もありません。そして根腐れしたり、また浮き草のように水にたっぷり浸かった状態では、外部からの力に負けて、根が浮かび上がって倒れてしまいます。
こうしたことを考えると、時には渇きといったいくらかの試練というものが、植物には必要だとわかります。時々、暑い日差しに耐えている植物を見ると、かわいそうにも思え、このままだめになってしまうのではないかと思いますが、そういう時こそ、植物の根は成長しており、その成長は嵐や台風など、将来襲うかもしれない試練に立ちうるために必要なのです。そして何より、嵐にも生き延びられるよう、強く成長する最大の目的とは、花を咲かせ、実を結ぶためなのです。
このように神様が送られる試練には、たくさんの知恵が込められているのです。
そしてそれは私たちの人生における試練にも同じことが言えるのではないかと思います。
試練は私たちに、人生について考えさせ、主を求め必死にさせてくれます。その必死に主を求める思いに主は応えてくださり、そのことによって私たちは信仰を強め、成長させて頂くのです。
誰も渇いた状態を喜ばしいとは思わないでしょう。しかし、主の祝福が豊かに注がれるのは、まさしくそういう時なのです。
そしてしっかりと根の張った植物がついに実を実らせるように、私たちは試練の時を通過すると、豊かに実を結ぶようになり、それは他の人にとっても祝福となるのです。
神様が与えてくださる「乾き」という祝福に感謝できますように。
「わたしの子よ、主の訓練を軽んじてはいけない。主に責められるとき、弱り果ててはならない。主は愛する者を訓練し、受けいれるすべての子を、むち打たれるのである」。
あなたがたは訓練として耐え忍びなさい。神はあなたがたを、子として取り扱っておられるのである。いったい、父に訓練されない子があるだろうか。だれでも受ける訓練が、あなたがたに与えられないとすれば、それこそ、あなたがたは私生子であって、ほんとうの子ではない。
その上、肉親の父はわたしたちを訓練するのに、なお彼をうやまうとすれば、なおさら、わたしたちは、たましいの父に服従して、真に生きるべきではないか。肉親の父は、しばらくの間、自分の考えに従って訓練を与えるが、たましいの父は、わたしたちの益のため、そのきよさにあずからせるために、そうされるのである。すべての訓練は、当座は、喜ばしいものとは思われず、むしろ悲しいものと思われる。しかし後になれば、それによって鍛えられる者に、平安な義の実を結ばせるようになる。」(ヘブル一二章五~十一節)
義に飢えかわいている人たちは、さいわいである、彼らは飽き足りるようになるであろう。 (マタイ5章六節)