闇から光へ

六月二七日 闇から光へ (二〇一二年六月 ひとしずく八五一)
 
あなたがわたしを世につかわされたように、わたしも彼らを世につかわしました。(ヨハネ十七章十八節) 

私たちは、主によって世に使わされていると聖書に記されています。そして、それぞれのために、それぞれの使わされている召しと、仕えることになっている人たちがいます。

先日、「奇跡の人」という映画を子供たちと見ました。アン・サリバンという女性が、ヘレン・ケラーの教育をする様子が描かれたとても古い映画です。

 アン・サリバンとヘレン・ケラーについては、ほとんどその映画からの情報しか知りませんが、アン・サリバン自身、目が不自由で、彼女の弟と一緒に孤児施設にいたようです。彼女の弟は、脚が不自由で、サリバンが世話をしていました。この孤児施設の衛生状態や環境は非常に悪く、ネズミがたくさんいて、そのネズミらが彼らのおもちゃ代わりだったそうです。隣りは娼婦のたまり場、さらにその隣りには死体置き場があり、そこが彼らの遊び場だったということです。
 アン・サリバンは、そんな牢獄のような闇の中で、自分をそこから連れ出してくれる光を求めていました。神はそんな彼女の心の願いを聞き入れ、後に手術を受けたり、教育を受けたりすることができるようになりました。
 その後、アン・サリバンはヘレン・ケラーの家庭教師として迎えられるわけですが、彼女には、目が見えず耳も聞こえないヘレンが、少女時代の自分と重なって見えたようです。
 サリバンは、闇に閉ざされた世界にいるヘレンに、どうにかしてお互い意思を通じ合わすことのできる世界が存在しているのだということを知らせたいと願い、初めて出会ったその日から、手話をヘレンに教えようとしました。
 こうしたサリバンの決してあきらめない努力の末に、ヘレンはたくさんの手話の単語を学び、語彙も増えていったのでした。しかし、どうしてもそれらの単語が何を意味するかということを理解するのは困難でした。サリバンの祈りと苦闘の日々が続きます。ヘレンの家族は、サリバンのしていることは、結局無駄な骨折りに終わるだろうと思いました。
 しかしついに、ポンプからくみ上げられ、彼女の手を冷たく濡らしたものが、ヘレンの覚えた手話の言葉「水」と一つに結びつくのです。その日を機会に、ヘレンは通じ合う世界、言葉によって心を通わす世界、理解し合える世界に飛び込んで行くのです。

 何と言う素晴らしい光への導きだったことでしょう。これは、サリバン自身が闇の体験を通過したからこそ、ヘレンの闇の中の孤独を理解でき、そんな彼女への愛と憐みが、彼女にも自分が見出した光を見出させてあげたいという気持ちを駆り立てたのでしょう。サリバンは、どんな絶望の闇の中にあっても、必ず光へと導いてくれる神様の愛を知っていたので、ヘレンの遭遇している困難にも立ち向かう信仰と勇気が与えられたのだと思います。

 聖書の中に、「神は、いかなる患難の中にいる時でもわたしたちを慰めて下さり、また、わたしたち自身も、神に慰めていただくその慰めをもって、 あらゆる患難の中にある人々を慰めることができるようにして下さるのである。」(第一コリント一章四節)という言葉があります。
 神様は、私たち一人一人に試練を体験させ、またその中で神様の救出や癒しを体験させることによって、似たような試練を通過している人たちの気持ちを理解させ、自分がそうであったように、その試練にある人のところに、神様の愛を運ぶ器として使わされるのです。

 闇の中にいるのは、決して目の不自由なヘレンのような人たちだけではないと思います。多くの人たちは闇の中に座しています。その心に命の光を持たないからです。何のために生きるのか、この人生が終わった後には何があるのか、人生の意味は・・・?何も知らず、知らされずに生きていくことこそ、闇の中を歩くようなものではないでしょうか?自分が闇の中にいるということを知らず、自分にはわかっている、見えていると思っている人も大勢います。イエス様は自分は知っているし、見えていると思ってる宗教家にこう言いました。「今あなたがたが『見える』と言い張るところに、あなたがたの罪がある。」(ヨハネ九章四一節)

「光はやみの中に輝いて」います。(ヨハネ一章五節)イエス様は「世の光」です。イエス様は闇の中にある私たちをどのように導いたら良いのかをご存知です。彼自身、闇の世を歩まれ、世に憎まれ、世の人の手にかかって命を落とされました。彼は闇の中にあることの困難をよくご存知なのです。
 イエス様はこうも語られました。

「わたしは光としてこの世にきた。それは、わたしを信じる者が、やみのうちにとどまらないようになるためである。」(ヨハネ十二章四六節)

主イエス様は、ご自分がどんな神様であるかを知らせるために、高い神の御座から見下げて知識を私たちに下さるだけでは、本当の意味で彼の私たちに対する愛は分かってもらえないと知っておられました。そのため、彼は肉体をとって人の間に宿り、人と寄り添い人の中に生きられたのです。
 イエス様のことを「神の言(ことば)」と聖書では表現しているところがあります。言葉はコミュニケーションの手段ですが、その語られた御言葉に生きるために、この地上に生まれて私たちの中に住んでくださったのです。それによって人がこの神に触れ、感じ、知ることができるようにです。

 言は肉体となり、わたしたちのうちに宿った。わたしたちはその栄光を見た。それは父のひとり子としての栄光であって、めぐみとまこととに満ちていた。(ヨハネ一章一四節)

 アン・サリバンは、自分にもたらされた光の世界を、ヘレンと共に生きることによって、ヘレンにも、もたらすことができました。その後ヘレンは、世界中の大勢の人たちに希望の光をもたらしてくれました。闇は光に打ち勝つことはできません。

 私たちも、アン・サリバンと同じように、世の光であるイエス様を信じることによって、以前は闇であったのに光となりました。そしてこの世には、闇にたたずむたくさんのヘレンがいます。どうか、それらの人々にも光と喜びをもたらすことができるように、光を信じ、光の中を、光と共に歩むことができますように。

光に導かれたそれらのヘレンたちは、さらに世界の多くの人々を光に導くようになるでしょう。

あなたがたは、以前はやみであったが、今は主にあって光となっている。光の子らしく歩きなさい―(エペソ五章八節)

光のある間に、光の子となるために、光を信じなさい。(ヨハネ十二章三六節)

あなたがたはみな光の子であり、昼の子なのである。わたしたちは、夜の者でもやみの者でもない。(第一テサロニケ五章五節)

 あなたがたの光を人々の前に輝かし、そして、人々があなたがたのよいおこないを見て、天にいますあなたがたの父をあがめるようにしなさい。 (マタイ五章十六節)

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