新たなる闘志をもって

六月二五日 新たなる闘志をもって (二〇一二年六月 ひとしずく八四九)

 先日、妻の血圧は三〇〇にも達し、今も二〇〇くらいあるので、もう少し入院していたら良いだろうという医師の勧めで、妻はまだ病院にいます。

 主は、病床にいる彼女に色々と語りかけて下さったそうです。彼女を見ると、さらに主に従う決意を強くしているのがわかります。

 もう歳だからとか、病気だから仕方ないと言って、主の御心を行わないことの弁解もできるというのに、彼女は「御心だったら、家族だけで暮らすのではなく、また皆で暮らす共同のホームを作りたい」とか「自分は主の仕事をするために選ばれているんだ」と新たなゴールを思い描いているのでした。 そして、ベッドに横になりながらも、私が「ひとしずく」を書いたり、メールに答えたりすることを勧めるのです。また自分は、今横になっているだけなので大丈夫だからと言って、昨日も今日も、私がバイブルクラスなどのアポイントに出かけて行くのを励ましてくれるのです。

 数十年前、宣教のために海外の宣教の地に行こうと駆り立ててくれたのも、妻でした。

  私は改めて、妻の強さを見たように思います。私はというと、ちょっとしたことで簡単に気落ちしたり、また目をゴールから逸らされたりしてしまう者です。今、試練の最中にある妻の、そうした決意や献身の態度を見ることで、自分の生き方を探らされています。

「There’s no testimony without tests.

There’s no triumph without trials.」

「テスト無しにはテステモニー(証)はなく、トライアル(試練)なくしてはトライアアンフ(勝利)なし。」という言葉があります。

 私たちが、主の御心を行い、ゴールに向って前進するつもりなら、傷は受けることはないと思っているのなら、それはたいした大義でも価値あるものでもないと思います。

 人は、簡単に自分のなし得なかったことについて、人のせいにしたり、また状況のせいにして、言い訳を言いたくなるものです。困難は人生につきものです。それなのに、私たちは、あれやこれやについて、つぶやく癖がついてしまっているのです。

 この地上では、各自が大切な使命を神様から頂いていると思います。それらがたとえ人の目に小さなことに見えるものだとしても、そこに神様が自分を置かれたのなら、そしてそこですべきことを示されたのなら、それは全力を尽くして取り組む価値のあるものだと思います。

 神様が自分を呼んでいるのなら、そこには試練と苦しみとテストしかないように見えても、おそらく、神様は私たちが、それに耐えられるとご存知であるか、あるいは神様は特別な力を与えて下さることができるということを、私たちに分からせたいか、とにかく何か 素晴らしいことを用意して下さっているはずです。

 アレキサンダー大王は、ビジョンを失って死に絶えました。彼の前に立ちはだかるどんな敵も彼は克服できましたが、自分を駆り立て、進み続けさせるビジョンを失った時、もう征服すべき世界がないと嘆いて死んでいったそうです。

  さて、今の私たちには、そんなチャレンジがないのでしょ うか?いいえ、あります。真のクリスチャンにとっては、最後に主が天に召してくれる時まで、アレキサンダー大王が持っていた以上のチャレンジが、限りなくあるのです。

 私たちには使命があります。その使命は、地上に残っている最後の一人が主の愛を知るようになるまで、主の愛と福音を伝えることです。自分のいる場所がどこであれ、周りにまだ主の愛を知らない人がいるなら、おそらく主は、自分をその人に使わしているのでしょう。 クリスチャンだからと言って、この世の試練から免除されるということはありません。かえって、悪魔は、生きているクリスチャンに対して、希望を奪い、不和を起こさせ、神の愛を疑わせようと躍起になっており、その分、試練は多いとも言えるでしょう。

 だからこそ、私たちは目をさまして、兵士らしく生きる必要があるのです。聖書が言うように、私たちは霊の戦いに従事しているのです。もちろんこの戦いでは、いくらかの傷を負うでしょう。しかし、あきらめないなら、勝利は必ず私たちのものとなるのです。 イエス様は、勝利の主だからです。

病床でも主の御心を思い、新たなビジョンをもって戦っている妻を見て、私にも新たな信仰の闘志が湧いてきたように思います。

 御心なら、これからもずっと妻と共に、そして信仰の兄弟姉妹と共に、全力を尽くして主の業に励むことができますように。

キリスト・イエスの良い兵卒として、わたしと苦しみを共にし てほしい。(第二テモテ二章三節)

感謝すべきことには、神はわたしたちの主イエス・キリストによって、わたしたちに勝利を賜わったのである。だから、愛する兄弟たちよ。堅く立って動かされず、いつも全力を注いで主のわざに励みなさい。主にあっては、あなたがたの労苦がむだになることはないと、あなたがたは知っているからである。(第一コリント十五章五八節)

他の投稿もチェック

誰 の声に従うのか?

ひとしずく1557-誰 の声に従うのか? ある人が、クリスチャンではない 友人たちに自分の悩みを相談し、その友人たちの言う通りに行動した結果、その結果が結局自分の望んだこととは反対のことが起ってしまった ことを非常に悔やんでいました。自分はそうは思っていなかったのに、友人たち皆が口をそろえて同じ事を言うので、自分もいつしか彼らと同 じ気持ちになってしまっていたということでした。今思えば、その決断は主の見方、やり方ではないし、自分の本心でもなかったと、寂しそう に言っていま した。 私たちはよく、神を恐れるよりも...

聖書の中の偉人たち

ひとしずく1556-聖書の中の偉人たち  有名な人の生涯を見て、その数々の偉業に、凄いなという印象と圧倒される思いを抱く事があります。しかし、そこからいくらか学べることはあるものの、励ましを受けるより、自分にはそんなこと、とてもできそうにないとがっかりしてしまう場合があります。  反対に、偉大な人たちの失敗や罪を見る時、こんな偉大な人でも罪深いところがあり、それにも拘わらず、神様は彼らを赦し大いに用いられたのだとわかると、とても励まされるのではないでしょうか。もしかしたら、自分にも希望があるかもしれない、と。...

聖 書に書かれている農業

ひとしずく1554-聖 書に書かれている農業  先日、創世記を読んでいて、一つ発見がありました。それは、人はエデンの園に置かれた時、神様から園を耕すようにと言わ れていたことで す。私はずっと、畑を耕すことは、アダムとイブが罪を犯して、エデンの園から出されてから神様から課せられた仕事だと思っていました。しかし創世記2章に は次のように書いてあります。  「主なる神は人を連れて行ってエデンの園に置き、これを耕させ、これを守らせられた。」 (創世記2:15)...