洗礼について

六月二三日 洗礼について (二〇一二年六月 ひとしずく八三七)
 
「水の洗礼」を受ける受けないについては、昔からクリスチャン同士の間で論争問題の一つとなっているようです。内村鑑三氏の時代もそれは同じだったようで、これは彼が、洗礼について述べたものを現代訳にしたものです。
 
「洗礼と信仰」    明治40年3月10日
 
◎洗礼を受けない者は、キリスト信者でないと言う。それでは私のように、洗礼は受けたけれども、これを返納した者は、キリスト信者でない、また私と同じように、心にキリストを信じていても、頭に洗礼を受けない者は、キリスト信者でない、キリストのために身と心とに傷を負う者でも、牧師、宣教師、伝道師等から水の洗礼を受けない者は、キリスト信者でないとのことである。
これに反して、党を結び、友を売り、偽り、欺き、世に媚(こ)び、富を追求する者でも、水の洗礼を受けた者は、全てキリスト信者であるとのことである。
ああ、もしそうであれば、キリスト信者となることは、何と容易なことか。私はキリスト信者となってキリストを離れるよりは、むしろキリスト信者とならずにキリストの心を知りたいと思う。
 
◎誰がキリスト信者であるか?キリストのように世に憎まれる者、彼のように世に枕する所のない者、彼と苦痛を共にする者、イバラの冠を着せられる者、この世の政府と教会とに、十字架に付けられる者、これがキリスト信者である。
 もしバプテスマ(洗礼)を受けるべきであると言うのであれば、聖霊のバプテスマを受けるべきである。もし聖餐式の必要があると言うのであれば、迫害の苦(にが)い杯を飲むべきである。私たちにとっては、これを除いて他には、洗礼もなければ聖餐式もない。
 
◎聖書に、水の洗礼のことが書いてある。ゆえに洗礼を受けない者は、キリスト信者ではないと言う。だが、同じ聖書に、盗む者、姦淫する者、兄弟を謗る者、財貨を愛する者は、キリスト信者でないと書いてある。
 ゆえに、洗礼を受けない者がキリスト信者でないと言うならば、洗礼を受けてはいても、この世の思慮(こころづかい)と貨財(たから)とさまざまの情欲とに蔽われている者は全て、キリスト信者でないのである。
キリスト信者でない者は、水の洗礼を受けずに教会の外に立つ者ばかりではない。教会の内に在って、罪を犯しながら自分の罪を認めない者もまた、全てキリスト信者でないのである。
 
◎昔は、洗礼を受けることは、多くの苦痛であった。それは、古い宗教を絶ち、悪い習慣を去ることであった。今はそうではない。今は、水の洗礼を受けることは、教会と宣教師との保護を受けることである。多くの社交的便宜を得ることである。
 洗礼を受け、教会信者となって、富を作った者もいる。教育を受けた者もいる。今は、洗礼を受けることは、「キリスト・イエスを識(し)るを以て最も勝れる事とするが故に、すべてのものを損となす」(ピリピ書三章八節)ことではない。
 物質上ならびに社交上多くの利益を受けることである。今の洗礼なるものが、害があって益がないのは、このためである。
 
◎ キリスト信者でなくてもよい。キリストを信じ、その御足の跡を踏み、その救いに与れば足りる。洗礼信者は、一団となって、その行こうと思う所に行くべしである。
 私たち洗礼を受けない信者もまた、キリストの十字架を担いながら、私達の行くべき所に行くべきである。私達はキリスト信者と認められなくても、何の苦痛をも不快をも感じない者である。
 
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 これを読んで私は、私を信仰に導いてくれた学生時代の先輩のことを思い出しました。彼は、私が洗礼式に踏み切るのを助けてくれた人で、信仰の先輩でもありました。よく二人で、イエス様や信仰について夜遅くまで語り合い、将来一緒に宣教師になろうと話したりしたものでした。
 しかし、驚いたことに、彼が留学先で、聖書学校に行き帰ってきた時には、彼の神様への信仰は失われていたのです。日本に戻った彼が私に最初に話したのは「自分は宣教師になることは止めた。お前もやめた方がいい」ということでした。彼は洗礼式を受けて信仰を告白した人でしたが、その信仰をあっさりと捨て去ったのでした。
私も内村鑑三氏が言われたように、水の洗礼に与る与らないということは、信仰生活には重大な問題ではないと思います。私の周りには、水の洗礼を受けずとも、本当に主イエス様を愛し、信仰に生きている尊い兄弟姉妹がたくさんいます。
 ある人は「洗礼式はイエス様との結婚式のようで神聖なるものだから、とても大切で必要なものだ」と言います。私も、洗礼式を否定はしませんし、それがまだイエス様を知らない人に、イエス様のことを伝える機会になれば素晴らしいと思います。
 しかし、実際の結婚で例えるなら、私は妻と結婚し<今四十四年目>、子ども達に恵まれていますが、結婚式を挙げてはいません。式を挙げていないなら結婚したことにならず、祝福もされないかというと、そうではありません。洗礼式もそれと同じようなものではないかと思うのです。
また、ある人はこう言うでしょう。「イエス様も、洗礼者ヨハネから水で洗礼を受けたので、私たちも同じようにするべきだ」と。
 
しかし、聖書を見ればわかることですが、イエス様御自身は、人々に一度も水で洗礼を授けたことはないのです。もし水の洗礼が必要不可欠であるなら、どうしてイエス様は人々にそうされなかったのでしょう?
 
洗礼がイエス様との結婚という神聖なものであるとするなら、それは、決して儀式によらないと思います。もちろん、水の洗礼を受ける受けないは、個人の信仰によると思いますが、大切なのは、儀式云々より、イエス様とどれだけ親密な関係を持ち、それを保ち続け、共に生きるかではないでしょうか?
形によらぬ、真のイエス様の花嫁となること、それこそが本当の洗礼なのだと思います。
 
「私(ヨハネ)は、あなたがたが悔い改めるために、水のバプテスマ(洗礼)を授けていますが、私のあとから来られる方(イエス様)は、私よりもさらに力のある方です。私はその方のはきものを脱がせてあげる値うちもありません。その方は、あなたがたに聖霊と火とのバプテスマをお授けになります。」(マタイ三章十一節)

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