六月二二日 奇跡を起こす愛 (二〇一二年六月 ひとしずく八四五)
「大きな愛のあるところには、常に奇跡がある。」─ウィラ・ギャザー
友人が、少年院に入っていたある青年の、次のような手記をメールで送ってくれました。
「…実は、僕も自分の立ち直りのポイントははっきりとは分かっておりません。ただ、肝心のきっかけは、嫁が妊娠して、まだ見ないわが子が、自分を父としてこの世に誕生してくれようとしていたことです。十一年間の非行人生の中で、少年院に二度入り、保護観察は六年間ついてましたが、その間、僕はまじめになろうと思ったことは全然ありません。だけど、嫁が妊娠した時に、生きなおそうと決心し、行動に移せたことは、少年院、保護観察所の教育というよりも僕の、父、母、弟というかけがえのない家族が、僕をずっと心から愛してくれて『家族というものはどうあるべきか?』ということを、命懸けで教えてくれて、僕の中に染み込ませてくれていたからだと思っています。僕が、どんなに犯罪をしようと、僕が何度裏切ろうと、僕の父と母は、僕を決して見捨てることなく、本気で命を懸けて愛し続けてくれました。だから、自分自身が父になるという自覚が芽生えた時に、わが子を心から愛したいと思えたのだと思います。僕を支えてくれた嫁、一緒に悪さをやってきた友人たち、弁護士さんや、調査官などの存在も大きかったです。」
この元非行少年Kさんの手記を読んで、私は、いかに愛には奇跡を生み出す力があることかとつくづく思いました。
Kさんは、神様に出会ったのだと思います。聖書の第一ヨハネに「神は愛である」とあります。Kさんを気づかぬ内に支えてきたもの、またKさんが探し続けていたものは愛だったのです。
神の愛は、愛と真実に満ちています。この世の中で本当に確かなもので、頼れるもの、全てが無くなっても、これさえあれば生きていけるもの、それは愛ではないでしょうか?
人生の目的や生きる意味を見出せなくなった人は、魂の創造者である愛なる神様に出会う必要があるのです。私たちは、そのための神様の愛の道具となることができます。
Kさんは、自分を愛してくれた両親、お嫁さん、そして、お腹にいる子ども、この人たちの愛ゆえに、人生の方向転換をすることができたのです。愛は神から来るものです。Kさんを真剣に愛した人たちの愛が、生まれてくる子供への愛を芽生えさせました。神の愛によって変えられた一人の心は、また他の必要を抱えた人の心を、愛によって変えることになります。それは愛なる神の業なのです。愛こそが人生を意味あるものにし、また目的を果たす力です。愛は神様の奇跡なのです!
どうか、イエス様が私たちを赦すために示して下さった愛、そして決してあきらめないその愛をもって、今日も家族や周りの人たちを愛することができるよう、主が助けてくださいますように。
愛する者たちよ。わたしたちは互いに愛し合おうではないか。愛は、神から出たものなのである。すべて愛する者は、神から生まれた者であって、神を知っている。愛さない者は、神を知らない。神は愛である。(第一ヨハネ四章七、八節)
神を見た者は、まだひとりもいない。もしわたしたちが互いに愛し合うなら、神はわたしたちのうちにいまし、神の愛がわたしたちのうちに全うされるのである。(第一ヨハネ四章十二節)
愛は高ぶらない、誇らない…不義を喜ばないで真理を喜ぶ。…すべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてを耐える。(第一コリント十三章四、六、七節)