魂の収穫

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2023年6月20日
六月二〇日   魂の収穫 (二〇一二年六月 ひとしずく八四一)
 
 昨年、近くの山でミズという山菜を沢山採ってくることができました。そのことを家族で話していました。
「そういえば、昨年、あのミズを採ったのは、ちょうど今頃じゃなかった?」 「そうだ、今頃だったよ」ということで、早速先日、母と息子と私の三人で山に行ってきました。
 
  母は山菜採りに関しては慣れたものですが、膝を悪くしてしまったので、去年とは違い無理はできません。お医者さんから、 無理したら動けなくなってしまうと言われたばかりです。でも、去年行った場所なら、ぎりぎり近くまで車で行けるので良いだろうと、今年もたくさん採れることを期待しながら、そこに向かいました。
 しかし、到着するや否や、その期待は無惨にも裏切られてしまいました。その付近は山の斜面から下の方まで、ほとんどの木が切り倒されて無くなっており、ブルドーザーの通った跡まで残っていたのです。
 ミズは日の当たらない場所に育つ植物です。がっかりしながらも、わずかな期待を持って、その近くにある薮の中に入ってみましたが、ミズは、全く見当たりませんでした。
 「あー、残念」三人の思いはこの一言につきました。
   きっと山の持ち主は木が大きくなったので、伐採することにしたのでしょう。当然あんな巨大な木々を伐採するには、山菜などに気を留めている余裕はありません。
  私は、母と息子に「他のところに行こう」と車に乗ることを勧めたのですが、母親はその辺りにある他の山菜 をいくつか見つけ始めていました。そこで、私も車での移動をあきらめ、車の停めてあった場所から道伝いに山菜を探して歩きました。するとそこに、ちょっとした薮があったので「もしや!」と思い、その藪に分け入ってみると、なんとミズがいくらか生えているのを見つけたのでした。そこをもう少し進んで行くと、さらに多くのミズが、そしてもっと中に入ると、まるでミズ畑のようにずらっと並んで生えている所を見つけたのです。
 ほとんどが、もう少し待たなければならない小さなものでしたが、あるものは、背丈が高くなって、採れるものになっていました。
 私はまるで宝石の山でも見つけたかのような感激をもって、母と息子を呼んだのでした。
「おーい、ここにあるよ。ミズがたくさん!」
 
 これは何か、暗示的であるように思えました。 魂の収穫の主である神様は、このことを通して、魂の収穫のことを私に教えようとされていたのではないかと思ったのです。
  時々、 世間や自分のいる環境状況を見て、ああ、主の福音を聞こうと思う人は、ここにはいないのだ・・・。とがっかり思うことがあります。しかし、そんなふうに自分の判断で、簡単にあきらめてしまうことがないようにという戒めのために、主は、こうした山菜採りを体験させたのかもしれません。つまり、今まで目を留めていた状態から目を離し、目を上げてよく見るなら、そこには刈り取りを待つばかりの魂の畑があるのだということを、主は私たちに教えたかったのではないかと思ったのです。
   私たちはどれだけ、状況や、人の表面的な態度を見て、証しするのをあきらめてしまうことがあることかと考えていました。しかし実際は、思わぬ状況やまた見かけにも拘わらず、救いを待ち望んでいる魂がたくさんあるのではないかと思うのです。 
  どうか、私たちが自分の勝手な判断で、主が手を差し伸べたいと思われている魂の前を素通りすることありませんように。 
   神様は収穫の主であられます。その主が示される刈り入れを待つばかりの収穫の畑を見い出せるよう、私たちの目が開かれますように。また、まず自分が使わされるべき働き人となることができるよう、主が特別な恵みと力を与えてくださいますように。
   そしてさらに多くの忠実な働き人が与えられますように。
 
  (イエスは)弟子たちに言われた、「収穫は多いが、働き人が少ない。だから、収穫の主に願って、その収穫のために働き人を送り出すようにしてもらいなさい」。(マタイ九章三七、三八節)
 
あなたがたは、刈入れ時が来るまでには、まだ四か月あると、言っているではないか。しかし、わたしはあなたがたに言う。目をあげて畑を見なさい。はや色づいて刈入れを待っている。
 刈る者は報酬を受けて、永遠の命に至る実を集めている。まく者も刈る者も、共々に喜ぶためである。そこで、「ひとりがまき、ひとりが刈る」ということわざが、ほんとうのこととなる。わたしは、あなたがたをつかわして、あなたがたがそのために労苦しなかったものを刈りとらせた。ほかの人々が労苦し、あなたがたは、彼らの労苦の実にあずかっているのである。(ヨハネ四章三五~三八節)
 

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