命の水をもって

六月十五日 命の水をもって (二〇一二年六月 ひとしずく八三六)
 
私の母は、昔から忠実にそして愛を込めて、小さな畑の世話をしています。その母の姿から、私はいつも多くの大切なことを学んでいます。
母は、最近雨が降らないので、植えたばかりの作物のことを気にしていました。そして今朝は、私たちが知らない間に、4時半ころに一人起きて、脚が悪いというのに、畑まで2キロの道のりを手押し車を押して出かけて行ったのでした。ネギの苗に水をあげるためです。
 水は、今までは、隣りの水田に水をひいている堰から汲んでいたのですが、その田んぼを作っていた人が、もう田んぼを止めてしまったので、いつも水をたたえていた堰には、今ではほとんど水が流れていません。なので、作物に水をやるのも簡単ではないのです。まして膝に水がたまってしまい、痛みを抱えている母にとっては、大変なことです。
 しかし、苗の生育にとって水やりがいかに大切なことであるかを知っている母は、一時でも早く水やりをしないではいられなかったのだと思います。
 朝食の時間になり、私が車で畑にいる母親を呼びに行った時には、母は小さな小屋で、バナナ一本とパン一切れの朝食を済ませていたところでした。朝食に家に戻れば、また畑に来るのが大変だからということでした。
 私は、朝食を済ませてしばらくしてから、妻と子供たちを連れて母のいる畑に行き、草取りやゴーヤのための蔓棚を作るのを手伝いました。
 そして一通りの仕事を終えて、皆で家に帰り、昼食を済ました頃、短い時間でしたが、地を打つように強い雨が降り出したのでした。
 私たちが水を汲んで、一つ一つの苗に水をやるよりも、畑全体をしっかりと潤す雨は、作物にとっては、はるかにその渇きを癒すものだったことでしょう。
 このことを考えると、私たちがわずかに汲んで撒く水など、神が注ぐ雨に比べたら、あまりにも取るにたらないもの、比較にもならないことのように思えてしまいました。
 しかし、干涸びそうな時に、命をつなぐために苦労して注がれた水は、わずかでも決して大量に降り注ぐ雨に劣るものではないと思います。畑に植えられた小さな命への気遣いがあるために、豊かに潤してくれる雨の日と雨の日の間にある、欠乏と苦しみの時を生き延びることができ、そのつなぎがやがて実を結ばせるようになるのです。
 足の痛みをこらえて、植えたばかりの苗にとって、それがなければ死んでしまうかもしれない命の水を注ぎに出かけた母の姿に、私は、神様の私たちへの深い愛を見たように思いました。
 神様も、農夫のように、私たちの心の畑に蒔かれた、神様の御言葉の種の成長と、命のために、いつも心細やかに気にかけておられるのだと思います。
 私たちは、霊的に豊かに潤っているような順風満帆な時もあれば、乾いた試練続きの状況の中を歩まなければならない時もあります。
 しかし主は、私たちがすくすくと成長しているかどうか、また渇いて死に絶えてしまうことがないようにと、いつも細心の注意を払って見守っていてくださいます。そして、私たちのつらい試練の時には、その命を保つために、いつになく近くにおられて、命の水を注いでくださるのだと思います。
神様が試練の時に注いでくださる水は、ある時は真理の御言葉であり、またある時は友人の慰めの言葉や祈りであるかもしれません。いずれにしても、神様は命の水をもって、必ずその渇きを癒し、力を回復させてくださるのです。 
 
 主は「わたしは決してあなたを離れずあなたを捨てない」(へブル十三章五節)と言われました。この神に、私たちは信頼を置いているのです。
試練の時にこそ、この神様の愛を固く信じていることができますように。そして、この神の約束も・・・。 
 
あなたがたのあった試練で世の常でないものはない。神は真実である。あなたがたを耐えられないような試練にあわせることがないばかりか、試練と同時にそれに耐えられるように、逃れる道も備えていてくださるのである。(第一コリント十章十三節)
 

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