六月十四日 神を試みてはならない (二〇一二年六月 ひとしずく八三五)
あるアメリカの教会では、牧師が毒蛇に噛まれて死んだそうです。調べてみると、そこでは「スネークハンドル」というものが伝統的に行われていて、聖書の「毒を飲んでも死なない」「蛇をふみつける」といった主の約束に基づいて、信仰によって(?)毒蛇を皆の前で操るのだそうです。しかし、すでに百人もの信者が毒蛇に噛まれ命を落としているということでした。
この話は息子が教えてくれたのですが、息子は「これって、悪魔がイエス様を誘惑したのと同じゃない?」と言っていました。聖書を見ると、悪魔は次のようにイエス様を誘惑しています。
「もしあなたが神の子であるなら、下へ飛びおりてごらんなさい。『神はあなたのために御使たちにお命じになると、あなたの足が石に打ちつけられないように、彼らはあなたを手でささえるであろう』と書いてありますから」(マタイ四章六節)
なるほど、確かに息子の言う通りだと私も思いました。
悪魔はそういうふうに私たちを誘惑してくる時があります。「もし、神の言う言葉が真理であるなら、それを証明したらどうだ?」と。一見、それを証明することは信仰が試されているかのように思うことがあるかもしれません。しかし、やはりその誘惑に答えるというのは、信仰とは違う ものだと思います。
神様は、どうして悪魔のこういった挑戦を受けることがあるでしょうか?神様は、すでに悪魔の企みを ご存知であり、その悪魔の誘惑にまんまと乗せられることなどありません。悪魔に誘惑を受けたイエス様は、聖書の言葉を引用して、悪魔にこう言い返しました。
「主なるあなたの神を試みてはならない」(マタイ四章七節)
イエス様は常に父なる神のご意思を尊重され、敬い、従順を守られました。
「よくよくあなたがたに言っておく。子は父のなさることを見てする以外に、自分からは何事もすることができない。父のなさることであればすべて、子もそのとおりにするのである」(マタイ五章十九節)
イエス様は多くの奇跡を行われましたが、それは父なる神様の御意志にかなったことをされたからでした。決して自分の神の子としての権威を使って、自分の力を 見せつけるためでも、また自分の良しと思われることを気ままに行うためでもありませんでした。そこには、父なる神への絶対的信頼がありました。神様は、愛であられ善であられるということに対する信頼が。そして何よりイエス様は、神の御意志でないことは、自分は何一つできないということをよく御存知でした。
私たちも同じように、そんなプライドを試され、悪魔の誘惑にまんまと乗ることのないよう気をつけなければならないのだと思います。
「神を試みてはならない」この言葉をもって、悪魔の誘惑に打ち勝ち、神の栄光を現すことに、思いを留めていることができますように。
どんな時でも神様に信頼し、賛美するという態度こそ、神様の存在の大いなる証拠の一つであり、奇跡の一つとなるのではないでしょうか。
<ちなみに、「へびをつかむであろう」とあるマルコの福音書の最後の章である十六章の後半は、正典とは言えないものです。マルコの福音書は十六章八節で終わっています。そして九節以降のはまちまちな終わり方があります。これは欽定訳聖書がその九節以降のある文書を取り入れて編纂されたためであると言われています。その後、もっと古い写本が見つかったのです。マルコの福音書の九節以降が括弧でくくられているのは、それが理由です。しかしその中に、「へびをつかむ」とか「毒を飲んでも決して害を受けない」とかいう文書が含まれており、また「信じて<水の>バプテスマを受ける者は救われる」などという文句が含まれています。これらは信ぴょう性に欠けるものであり、信頼を置くべきものではないと言う学者がいます。このへびに噛まれる人が絶えない教会は、偽りの文書に惑わされた結果です。水のバプテスマが救いに必要ないことは、以前に何度も指摘しましたのでここでは繰り返しません。詳しく学ばれたい方はhttps://darktolight.jpの水のバプテスマに関する記事をご参照下さい>